最果ての地? 

えーと何してたっけなあ。居間の絨毯に掃除機をかけたくらい。外は寒い寒い。
……そろそろ本気で見捨てられそうなので、とりとめなく書く。
函館に帰ってきてから、結局東京からの移動中に読んだ本以外に一冊も読めていない。2週間もあればミステリの古典を読みまくるはずだったんだけどなあ。音楽や本の感想を日記に書いていると、いつか日記を更新するために音楽を聴いたり本を読むようになる。そういう転倒はウェブ日記を書いている人は多かれ少なかれ身に覚えがあると思うけど、実家で両親と暮らしているとそういう焦燥というか動機が限りなく希薄になっていく。いや、別に日記がなくても「趣味は読書と音楽鑑賞」なんだけど、少なくとも「音楽系」「読書系」というようなカテゴリへの帰属欲求はほとんどない。ゆるやかな輪の中にいるとは思うのだが、それ以上の主張をしたいとは思わなくなってくる。もっとも、そろそろ文化的生活というやつが恋しくなってきた。とりあえず姉が購入して以来使用されていないHDDレコーダーで深夜アニメでも録画してみようか。集合住宅にはUHFアンテナが設置されていないことも多い東京での生活より、U局デフォルトの北海道のほうがマニア向け作品の視聴機会に恵まれていたりして。それが文化的生活かと言われればアレだが。
サブカルチャーへの志向というのは東京のような中央の都市と地方では異なるものかという話をしていて「自分が地方人だったら細野さんとか渋谷系とか聴いてない」という人がいた。私が地方都市の中高生だった頃は、文化的な飢餓感が強かったぶん、むしろ上京後よりアンテナの感度が鋭かったように思う。深夜、ラジオの向きを変えながら必死に東京や関西のAM放送を受信した。唯一のFM局であるNHKの『サウンドストリート』や『軽音楽をあなたに』は、最新のロック・ポップスの貴重な情報源だった(後に待望の民放局「エフエム北海道」が開局したが、期待が大きすぎて肩透かし)。奇想天外社やブロンズ社や青林堂の単行本が置いてある書店は、ひとに教えたくない財産だった。函館西武のリブロは、確かにセゾン文化の香りを地方都市の高校生にまで運んできた。大友克洋ヘンゼルとグレーテル』(CBSソニー出版)や『GOOD WEATHER』『BOOGIE WOOGIE WALTZ』(ともに綺譚社)は通販で買った。その通販もAmazonにまで進化した現在では、書籍やCDの入手に関して中央と地方の差はもはやない。その代わり個性的な書店はみな潰れたが。函館西武も数年前に撤退して、跡にはパチンコ屋やゲーセンが入った。情報伝播の拡大は平準化とセットだ。実際インターネット以後において、文化情報の地域格差などないに等しいのだろう。
あるとすれば、ライヴや映画上映や演劇や美術展などの直接体験の量と質だ。私が高校生の頃はまだ函館にライヴハウスがなく、アマチュアバンドには楽器店主催のホールコンサートが晴れ舞台だった。名画座もなく、小劇団の公演が頻繁に行われるわけでもなかった。東京で青春期を過ごした人のライヴ体験回顧談には圧倒されるし、地方都市でもたとえばhttp://park18.wakwak.com/~everest/を読めば、仙台という街の文化状況の豊かさに目を見張る。もっともそこには文化の担い手としての主催者観客双方の能動的な関わりがあるのにちがいない。翻って、今の函館にはどのような文化シーンがあるのだろう。音楽状況にしても「ひとつのバンドのサクセスストーリー」に還元されない裾野の広がりが実はあるのではないか。要は一度くらい地元のライヴに足を運んでおけという話だが、検索で引っかかる範囲だとお寒いなあどうも。