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松尾清憲『SIDE EFFECTS』(85年)750円
松尾清憲『ブレイン・パーク』(00年)750円
フリーボ『すきまから』(96年)750円
テイ・トウワ『SOUND MUSEUM』(97年)250円
テイ・トウワ『Last Century Modern』(99年)250円
大沢誉志幸『Collage』(94年)250円
薬師丸ひろ子『シンシアリー・ユアーズ』(88年)250円
高橋幸宏『EGO』(88年)250円
ヴィーナス・ペーター『Space Driver』(92年)250円
THE B-52's/BOUNCING OFF THE SATELLITES('86) 250円 以上ブックオフにて購入
THE B-52's/WHAMMY!('83)
JIMMY WEBB/JIM WEBB SINGS JIM WEBB('68) 以上2枚三鷹パレードにて各1000円
で、今ヴィーナス・ペーターを聴いてたんだけど、このバンドとかL⇔Rとか英国ロック系の当時の遇され方は微妙だったんじゃないか。なんか渋谷系って「反・ブリティッシュインベイジョン」みたいな印象があるんだけど。

 セクシーボイスアンドロボ

七色の声を操り、千の声を聞き分ける少女ニコ。巨大ロボと女を愛し、虐げられてもめげないナイスガイ・ロボ。2人は喧騒の巷に今日も事件の足音を聞きつける。黒田硫黄原作のハードボイルドな漫画を、プロデューサー河野英裕、脚本木皿泉、演出佐藤東弥の『すいか』を手がけたチームがドラマ化している。
かなり映画を意識していると思われる黒田硫黄原作に対し、人工的な構図や美術、誇張された演技、特撮的なカメラワークなど、ドラマ版は漫画的というかアニメに接近している(ニコの七色の声はもちろん吹き替えだ)。それでも2次元と3次元の間には深い溝がある。60年代日活や70年代東映セントラルのプログラムピクチャーのような神話的な世界で超然と生きていた少女ヒーローは、リアルな肉体の重みと涙の水分を湛えて、原作には登場しない家族とともに日常を過ごす普通の少女として具体化されている。これは実写化の限界というよりも、製作者の明確な意図によるものだろう。ドラマの第一話に持ってきたのが原作の最重要エピソード「三日坊主の天国」であることからそれは明らかだ。軽やかな探偵ごっこであったはずが、自分の知らないうちに手を汚していた。他人の人生に取り返しのつかない形で関わる=手を汚すことが生きることの本質であるという、ごっこではない「仕事の倫理」をニコは単行本2冊をかけて学んだのだが、ドラマ版ではあっさりと第一話にして、「おじいさん(裏社会の大立者)」ならぬ浅丘ルリ子(『すいか』の教授の転生だろうか)にそれを教示されてしまう。この製作者チームにとって「社会の中で他者に関わり汚れて生きる」ことはすでに前提であり出発点なのだ。クールな少女ヒーローなどではありえない、大人に一歩踏み出そうとする「仕事見習い」に過ぎないのだと。
こうした変更点によるものか、mixi黒田硫黄コミュでは大不評のこのドラマ化だが、私はかなり面白く観ることができた。登場人物の台詞であからさまに主題が提示されるのには驚いたが、原作からインスパイアされてこれだけのドラマを作ってくれたことに感謝こそすれ怒る筋合いなどない。これで原作が売れファンが増え、黒田硫黄が続きを描く気になってくれでもしたら万万歳だ。ニコは普通に可愛かったし、ロボは相当にロボでした。ただし、原作ファンは別にしても客を選びそうな作風だとは思うけど。

 どこまでつづくぬかるみぞ

新番組と書いてぬかるみと読む。
らき☆すた。OP、ニコニコ動画での再生数とコメント数に吹いた。それも当然、ハルヒEDのハイパー化ともいうべき過剰な音楽性と運動性、ロングショットでのダンスや的確な日常芝居と、ほんのわずかな時間の中にファンが京都アニメーションに期待するもののすべてが込められている。最も訴求力の高い表現を冒頭に濃縮するというのは非常に正しい戦略だ。一方EDは、1枚の背景で表現されるカラオケボックスの部屋の外に漏れ聞こえるアニカラ(新曲ですらない。しかも選曲がアレ)を流し続けるのみという過剰な簡素さだ。その簡素さから、かえってアニメーションの運動性が強調されてもいる。これまでの京アニ作品ではあまり見られなかった引き算の芸だ(例の長門長回し読書はそれだけに印象的ではあった)。
ハルヒでは「シリーズ演出」を名乗ることで「作家のアニメではない」ことを主張した山本寛の作家性は「運動性の過剰なコントロール」という形で今回表出しているように思える。とりわけ本編においてそれは顕著だ。女子高生の他愛のないというかどうでもいい日常会話に、極力カメラを動かさず、カットを重ねず、記号的な崩し絵やイメージ背景も極力交えず(萌え4コマなのに!)、時間と空間を加工せずに切り取ろうとする過剰な無作為が貫徹される。これはいわゆる京アニの「原作の愚直な再現」とは次元の異なるものだ。「萌え4コマフォーマット」のほとんどミニマリズムに近い平板さをアニメーションとして持たせるうえで、決して『ひだまりスケッチ』にはしない演出の胆力がそこにある。それを可能にするのが京アニの高い制作能力であるのは言うまでもない。このスタイルが2クールを通して維持されるとは思えないが、あざとさを超えて強いられる緊張に客がどこまで耐えられるか。OP、本編、EDと、それぞれに異なる「過剰さ」を受け入れられるかどうかが、本作の評価の分かれ目だろう。
とりあえず今期ではギガンティック・フォーミュラと並ぶ「異常なアニメ」として認識した。視聴継続(もっともGFの場合は単なる天然の可能性大)。

 続続続・しつこく新(ry

風の少女エミリー。キャラクターの濃さと継子苛め風の悪趣味さに10分で脱落。ブルードラゴン。普通。赤さんもふたご姫も終わった土曜日はゆっくり寝てろってことですね。さようならしずくちゃん……。
地球へ…。30年前の原作、というより管理社会テーマSFの基本思想は「人の作ったシステムは更新できる(すべきだ)」というものだろう。その明快さは「主体の明確なシステムの管理ではなく、中心のない曖昧な空気による支配には抗いようがない」という無力感に苛まれた時代にあって、甘いノスタルジーを誘う。あるいはこれも、あらゆる手段を動員して空気そのものを造り出そうとする局側の戦略の一部だろうか(はいはい陰謀陰謀)。それはさておき30分でジョミーの成人検査失敗とソルジャーとの接触まで描き切る手際は悪くない。ただ、原作のアニメによる再読以上のものになるかは疑問。

 畸人宮

Magical Power Mako Super Progressive Band
2007年4月7日 秋葉原dress TOKYO
出演:Magical Power Mako Super Progressive Band
マジカル・パワー・マコ(g,kb,voice)/吉田達也(ds)/津田治彦(g)/桜井良行(b)/大森俊之(kb)
ゲスト:珠希真利(cello)/語り部ミウ(voice)/魔ゼルな規犬(馬頭Rap)/立島夕子(スーパー・ヴァイオレント詩人)/神沢敦子(痙攣的身体展示)/Syadooo(シキ)/あなるちゃん(Noise Vocalization)/ゑれき駄ゑれき(フェチ系パニック&ノイズ・ギグ)/Lui666(丑三時器具類凶呪)/QPT & shimi(Puppet Show)
opening act:エルガ(vo) with 津田治彦(g)/桜井良行(b)/(不明)(ds)

吉田達也津田治彦らの強力なメンバーとともに演奏した、昨年末のマジカル・パワー・マコのライヴは大変に充実した内容だった。*1本人も良い感触があったのだろう、同じ演奏者と異形のパフォーマーたちによる、今回は2度目のライヴとなる。
会場も同じ秋葉原dress TOKYOだが、最前列には2列の椅子が並べられている。プログレ系のライヴではよくあるが、前回にもあったか記憶にない(たぶんなかったと思う)。
オープニング・アクトを務めた女性シンガーのエルガは、日本的トラッドという風情なギター弾き語りを聴かせた。そこに津田らのサポートを加えた音の佇まいは、日本的な情緒を匂わすシンフォニック・ロックと言っていい。続いて登場した珠希真利のチェロと大森俊之のキーボードの共演もシンフォの叙情を強く感じさせるもので、用意された椅子席といい、ここはプログレの殿堂シルバーエレファントなのかと思わされる。
そのような雰囲気の中で他のメンバーが演奏に加わり、やがてマジカル・パワー・マコが登場。実力あるメンバー同士がぶつけ合う音は大変に気合いの入った正統派のロックなのだが、演奏者の素性が確かなだけに、冒頭からの展開を引き継いでややもすれば「大変格好良いプログレッシヴ・ロック」に回収されてしまうのではないかとも思われた。
のだが、ヌードダンサーが登場したあたりで様子がおかしくなってくる。学芸会風な白い衣装に身を包んだ天使による寸劇はやがて惨劇に変わり、馬の首を被った男に率いられた畸人たちが、扇風機と一斗缶と便所用ラバーカップ(いわゆるカッポン)をもって陵辱と暴力の限りを尽くし、安全なプログレライヴの特等席だったはずの椅子席は、一瞬にして恐怖のリングサイドと化したのであった。嵐が止んだ後パフォーマンスが再開されようとしたが、一斗缶に入っていた灯油(!)が揮発し引火の危険があるということで一時中断。これは単に灯油が残っていたのに気づかなかったのか、それとも意図的か、いずれにせよドリフのコント的な予定調和をはみ出したのは確かだ。暴れていた当人達が呪詛を吐きつつ清掃していたのが可笑しい。
10分ほどの中断を挟み演奏再開。強者たちをバックに朗々と響く「あなるちゃん」の怪鳥音ボイスは音楽的にも聴かせるものだった。前回のライヴよりもパフォーマンスが演奏と融合している姿は、一種の総合芸術と言えるかもしれない。もっともそんな高尚なものではなく、最後にはストリップやら馬頭妄言やら血まみれ自傷男やらが狭い舞台の上で同時多発的に狂宴を繰り広げる様には、どこに焦点を合わせていいか判らず目を泳がせてしまった。
全体に出し物としての練度はさらに上がっていたものの、あまりにもエクストリームというか、やり過ぎの感は否めない。アンコールの拍手が起こるまでのしばしの沈黙は、呆気に取られた客の虚脱感か、「もう勘弁してください」という心の悲鳴か。それでも、小金持ちのファンから集金するための「プログレ」ではない、何が起こるか判らない客席との緊張感を作り出す「アングラ」の凄みは充分過ぎるほど味わうことができた。プログレッシヴ・ロックの原点とはこういうものかもしれない(そうか?)。*2

*1:http://d.hatena.ne.jp/marron555/20061216#p1

*2:ジェネシス時代のピーター・ゲイブリエルの奇怪な姿を、私たちは海賊版ビデオやYouTubeで半笑いを浮かべつつ眺めるが、リアルタイムのステージ・パフォーマンスとして間近に目撃した観客にとって、あれは本気で恐ろしいものではなかったか、とか。

 続々・しつこく新番組を(ry

かみちゃまかりん。原作未読。取り柄のない少女が謎の美少年と出会って魔法少女(神様)に……という至って普通の女児ものを、ここまでわけのわからない作りにできるスタッフの才能に嫉妬。何の説明もなしにいきなり魔法戦が始まったのはAパートを飛ばす放送事故かと思った。過去(前世)の記憶ならフラッシュバック程度の短い描写にして、第一話内で事情の説明とヒロインの変身まで描くのが定石だろう。あえてその定石を外す脚本構成の理由がわからない。私が女児だったら5分でチャンネル替えるぞ(どんな女児だ)。原作のコゲどんぼは何気にテーマ主義の人で、『なかよし』の読者に何をどう伝えるべきか本気で考えてると思うので、このアニメ化はもったいない。主題歌がアリプロって時点で違うだろ。安濃高志といい望月智充といい、昔のぴえろ亜細亜堂魔法少女ものの演出家は変な方向に曲がるなあ。そういやあんな堂々たるイヤボーン久々に観た(笑)。
DARKER THAN BLACK。これなんて菊地秀行なサイキック・ノワール、あるいはエロ抜き魔界都市新宿。もっと妖獣都市みたいに触手出してくれ(出ねえよ)。ていうかマジでエロ入れてOVAとかネット配信限定とかで出したほうが面白くなるんではあるまいか。無限の可能性に瞠目してた無印メダロットの頃が懐かしいなー岡村天斎

 ぼくはきっと風邪を引いてるんです

花粉症と風邪がシームレスに繋がっているのでもはやどうでもいいのだが、だんだん動作が緩慢になってきた。洟をかんだティッシュは乾かして2度使うのが基本です。
「ポエムや寝言は増田*1で書け」というのがはてな界隈での隠微なコンセンサスになりつつある今日この頃。ポエムや寝言こそはてなidで書くべきだと思う。ていうかそういうものしか書きたくない。

*1:はてな匿名ダイアリー=Anonymous Diaryの通称。こういうジャーゴンがコミュニティへの帰属意識を高め、やがて外部の存在を曖昧にしていく。