どこまでつづくぬかるみぞ

新番組と書いてぬかるみと読む。
らき☆すた。OP、ニコニコ動画での再生数とコメント数に吹いた。それも当然、ハルヒEDのハイパー化ともいうべき過剰な音楽性と運動性、ロングショットでのダンスや的確な日常芝居と、ほんのわずかな時間の中にファンが京都アニメーションに期待するもののすべてが込められている。最も訴求力の高い表現を冒頭に濃縮するというのは非常に正しい戦略だ。一方EDは、1枚の背景で表現されるカラオケボックスの部屋の外に漏れ聞こえるアニカラ(新曲ですらない。しかも選曲がアレ)を流し続けるのみという過剰な簡素さだ。その簡素さから、かえってアニメーションの運動性が強調されてもいる。これまでの京アニ作品ではあまり見られなかった引き算の芸だ(例の長門長回し読書はそれだけに印象的ではあった)。
ハルヒでは「シリーズ演出」を名乗ることで「作家のアニメではない」ことを主張した山本寛の作家性は「運動性の過剰なコントロール」という形で今回表出しているように思える。とりわけ本編においてそれは顕著だ。女子高生の他愛のないというかどうでもいい日常会話に、極力カメラを動かさず、カットを重ねず、記号的な崩し絵やイメージ背景も極力交えず(萌え4コマなのに!)、時間と空間を加工せずに切り取ろうとする過剰な無作為が貫徹される。これはいわゆる京アニの「原作の愚直な再現」とは次元の異なるものだ。「萌え4コマフォーマット」のほとんどミニマリズムに近い平板さをアニメーションとして持たせるうえで、決して『ひだまりスケッチ』にはしない演出の胆力がそこにある。それを可能にするのが京アニの高い制作能力であるのは言うまでもない。このスタイルが2クールを通して維持されるとは思えないが、あざとさを超えて強いられる緊張に客がどこまで耐えられるか。OP、本編、EDと、それぞれに異なる「過剰さ」を受け入れられるかどうかが、本作の評価の分かれ目だろう。
とりあえず今期ではギガンティック・フォーミュラと並ぶ「異常なアニメ」として認識した。視聴継続(もっともGFの場合は単なる天然の可能性大)。