『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』(細田守監督 2000年)

シネマヴェーラ渋谷の特集上映「アニメはアニメである」最終日に足を運ぶ。本作を観るのはビデオリリース時以来、劇場のスクリーンで観るのは初めてだ。
まずこの映画の作られ方を決定しているのが、41分という上映時間の短さだ。この長さにドラマを収めるために、群像劇であったTVシリーズデジモンアドベンチャー』から、直接事件に関わる人物を半分に減らし、人物像や人間関係の描写はTVシリーズを観ていることを前提に省略、余裕が出来た尺を核ミサイル発射後のタイムサスペンスに費やしている。これはTVシリーズの劇場版ならではの構成だが、TVシリーズの記憶が薄れた今となっては、中編の背後にある世界の大きさはもはや想像しにくい。また、タイムサスペンスは性質上、初見時と同じ新鮮さで観ることはできない。なので、初めて作品に触れたときのインパクトを再び味わうことはできなかった(20分とさらに短い劇場版1作目は、『デジモン』シリーズ起点なのでそうした弱点はない)。
そうしたドラマへの吸引力が薄れたぶん、映像に注意が集中することになるが、さすがに現在でも魅力を失っていない。東京湾岸の高層団地群というロケーションの秀逸さ、緻密な背景美術とレイアウトが、登場人物の生きる世界を高いリアリティで描き出す。一方、もう一つの舞台となる電脳空間は、そこがまったく「電脳空間らしくない」という点において2006年現在でも充分に新鮮だ。どこまでもフラットな白い空間で、パステルカラーの人物やオブジェが浮遊する「細田空間」は、その相対的な「解像度の低さ」によって劇中の「現実」と区別されている。この対置は、「主人公がデジモンの戦いに一切関わることができない」という作り手のゲーム的世界に対する問題意識を図像化すると同時に、「映画=アニメーション」と観客との関係を表しているようでもある。いずれにしてもこの「省略された空間=細田空間」は、ディテールの描き込みに注力する現実空間の描写よりもストレートに「アニメ的」であり、そこで展開される戦闘シーンの作画の美しさは類がない。村上隆が魅了されたのもよくわかる(どれだけ多くのものをここから搾取したかということも)。
そして、映画のクライマックスは「モニターの中の戦い」と「モニターの外の戦い」の境界が崩れ一体となることでもたらされる。それは細田守の「デジモン」というゲームの世界観に対する結論でもあったのだろうが、このモニターと現実の境界が浸食融合される場面は、具体的なアニメーションとして描かれていない。目撃者の反応を通して、そのようなことがあったのだと示すばかりだ。おそらくこのような超越的な描写こそアニメーションがもっとも得意とするところだろう。これは細田監督の、リアリズムと幻想の一線を越えない賢明さなのか、それとも「アニメ」よりも「映画」であろうとする限界なのか。
ところで、この映画はインターネットを巡る映画でもある。ISDNや衛星電話やPC画面など、当時の最新の描写は当然ながら今では古色蒼然としているが、それだけに「2000年現在」を瑞々しく刻印してもいる。そしてそこにあるのは「2000年に夢見られていたインターネット」でもある。『ぼくらのウォーゲーム!』でもっとも感動的なのは、インターネットを通じて世界中の子供たちが、いま戦う主人公たちにメッセージを送り、そのメッセージの集積がクライマックスでの奇跡を生み出すという展開だ。これはアップデートされた元気玉であり、『デジモン』や細田守東映の子供アニメの伝統の上にあることを物語ってもいるのだが、何より圧倒的なのは「ネットの力」に寄せるあまりにも無垢な希望だ。今の私たちが、これだけポジティヴな「子供が担うインターネットの可能性」を思い描くことができるだろうか。この肯定性の美しさには胸を熱くせずにはいられない。2000年の現在性に固執した『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』は、そのことによって時をかける力を得たのだといえる。


付記。
・音楽は何げに1作目で使われた「ボレロ」の変奏っぽいのね。
・ここで登場した「細田空間」は『時かけ』のタイムリープ空間として流用されている。ファンへのくすぐりでもあるが、『時かけ』が細田守にとって、宮崎駿の『カリオストロの城』にも似た「大棚ざらえ」であることの一例だろう。
・最後の回に観たのだが、観客席は若い女性の姿が多く、ちょっと女子校みたいだった。『時かけ』から流れてきたのか、『デジモン』同人を根強くやってる人たちなのか(後者のような気が)。
・併映『わんわん忠臣蔵』(白川大作監督 '63年)は昔テレビで観たきりだったけど、今観るとけっこう面白かった。原案の手塚治虫のセンスもあるが、作画監督大工原章の、森やすじとは異なるグラフィックな洗練が印象的。森で動物たちが暮らしている部分が伝統的なフルアニメで、主人公が都会に出てからが外国アニメ的なリミテッドやデフォルメを導入する、画面作りの対比に『ぼくらのウォーゲーム!』と通じるものがある。これはプログラムを組んだ上映側の意図と思うが穿ち過ぎか。