『立喰師列伝』(押井守監督)

立ち食いそば屋をはじめファーストフード店や露店などでの食い逃げを生業とする「立喰師」なる架空の人物群を追い、食を巡る攻防から社会の変遷を語り起こす、押井守監督の戦後日本論であり都市論であり、月見も出れば犬も出る。という、まあ内容はいつものアレだが作りが変わっている。
この映画には押井と親交のある業界人が配役に名を連ねているが、いわゆる実写映画ではない。人物の写真を平面的に素材に取り込んだ、デジタル紙人形アニメとでもいうべき手法で作られている。人物の写真を動かすのは演出家とアニメーターであり、声の演技を担当するのはプロの声優だ。つまり徹底してアニメの手法で作られているのであり、出演者は演技力ではなく「顔の面白さ」だけを問われることになる(コニー・ウィリス『リメイク』を思い出す)。とりあえず河森正治の顔が面白過ぎるのはわかった。
戦後の闇市の代用品で作られた月見そばもどきに、伝説の立喰師・月見の銀二は「いい景色」を見出す。この「紛い物で作られた景色」というのが『立喰師列伝』に通底するテーマだ。戦後の日本も紛い物なら食い物も紛い物、歴史を語る言葉も紛い物なら映画そのものも紛い物。何より立喰師の存在が紛い物だ。その紛い物の歴史をもっともらしく語るべく、押井節の膨大な都市民俗学説がナレーションによって展開されるのだが、この「どうでもいいことをもっともらしく語る」という事大主義ギャグがあまりにもっともらしいので、つい真に受けて笑いどころを見失ってしまう。
また、存在と非存在の間をうつろう「立喰師」を描くには、紛い物とはいえ映像という「実体」を持つ映画よりも、むしろ言葉しか持たない小説のほうが向いているだろう(評論文のパスティーシュの有効性を含めて)。もっとも映像化に向かない素材を映像化しようとすることが、押井守のあるいは日本のアニメーションの活力を生み出してきたともいえる。「紛い物で作られた景色」とはアニメーションそのものだ。『立喰師列伝』はまさにアニメ監督押井守の面目躍如ではある。
ただし、ここで表現手法として用いられた「紛い物の映画=人物の写真を貼り付けただけの紙人形劇」というのは、実はProduction I.Gの高度な技術と潤沢な予算によって実現された「紛い物の紛い物」だ。本当に紛い物だけを材料に景色を描くしかない、貧しい現場から生み出される表現の切実さはそこにはない。これがプロの役者を起用できない苦肉の策だというならまだしも、あえてする「貧しい表現」はCGによって貧しい生活を描いた『Always 三丁目の夕日』の能天気と変わらないのではないか。業界人の無邪気な楽屋落ちの趣向といい、パロディを言い訳にしつつ半ば本気の長広舌といい、どうも今一つ乗り切れない。
とはいうものの、長年の押井ファンなら楽しく突っ込みを入れつつ観ることができるだろう。映画の日の最終上映回はほぼ満席だった。