『真救世主伝説北斗の拳 ラオウ伝殉愛の章』(→公式※音が出ます)

何と5部作として製作されるという『北斗の拳』映画化プロジェクトの第1弾。長大な原作の中からケンシロウと聖帝サウザーとの戦いを描いた「聖帝十字陵編」を選び、物語を北斗3兄弟のラオウ・トキ・ケンシロウ、南斗のシュウ・サウザーの5人の男たちを巡る戦いのドラマとして再構成している(ローディストにお馴染みのアミバは登場しません)。この単純化により北斗VS南斗という対立の構図が明確になり、また悪役がサウザーに集約されることによって(サウザーと師匠のエピソードが省略されたのは惜しいものの)、単独の映画としても不足なくまとまったものとなった。また、ラオウの幼馴染みにして盟友であるソウガとレイナの兄妹のエピソードを加えることで、ラオウを一方の主人公格として描き出してもいる。正直製作者側のこのラオウに寄せる思い入れの深さは謎なのだが、ラオウ軍の軍紀粛正のためにソウガが命を懸ける件や、サウザー軍とラオウ軍の大軍相塗れる絵面などは、ブルース・リーを超えて中華武侠世界に迫り、映画のスケールを大きくしているのは確かだ。
今あえて『北斗の拳』を映画化するにあたり、北斗3兄弟の行動原理がそれぞれに説得力あるものとして描かれているのは特筆すべきだろう。力による社会の安定を目指すラオウ、民衆の自由のために力を行使するケンシロウ、暴力を否定し医療の道を志すトキ。「正義の相対化」とは正義など存在しないとする虚無主義ではなく、それぞれの正義に背骨を与えることで物語世界をより豊かにすることではなかったか。その上で、主人公の正義の選択をより観客に共感できるものとして打ち出せるかが、娯楽作品としてのカタルシスに関わってくる。その点、ユリアを巡る復讐譚を省いたケンシロウの動機は弱いものの、それでもシュウ親子の献身によって、ケンシロウVSサウザーの決戦は充分にクライマックスたりえている。そして戦いが終わった後、なおもケンシロウに武器を向けるサウザー軍の前に、無力なはずの子供たちが立ちはだかり、暴虐なはずのサウザー軍が武器を捨てる展開は(原作にも同様の描写があるものの)21世紀に作られるヒーローものとして納得できるものだ。ここに描かれる人々はケンシロウに守られるだけの、あるいは破壊されるだけのモブではなく、自らの意志や感情を持った人間なのだ。何故今『北斗の拳』なのかという疑問に対し、製作者は充分に説得力のある回答を示したと思える。『スパイダーマン2』を思い浮かべたりした。
最後に声優の演技に触れるなら、ケンシロウ役の阿部寛の演技は神谷明の役作りを踏襲しつつ、神谷演技の人工性を払拭して見事に嵌まっている。レイナ役の柴咲コウも健闘。宇梶剛士ラオウはアレだが。公開最終日に観たために感想を書いても時すでに遅いのが残念。なお後日に原作を読み返したが、「おまえのようなババアがいるか」などのテンプレ化した台詞に思わず吹いた。
映画を観た後、同行したayumiさんと沖縄料理。そもそも私が遅刻したせいで歌舞伎町に一人ロリータ服で待たせることになってしまい誠に申し訳ない。彼女が誘ってくれなかったらこの映画を観ることはなかった。多謝。
(追記)ところでこの映画の強さは「ベタをベタと知りつつ貫徹する」ことに支えられていると観た直後は思ったが、そうではないだろう。というのも、この映画化プロジェクトのプロデュースと脚本を担当しているのは、かつて『週刊少年ジャンプ』で『北斗の拳』を担当し、後に『コミックバンチ』を立ち上げる堀江信彦だからだ。90年代以降のクリエイターやユーザーが「ベタ」「オリジナルの不可能性」などと否定的に語るのと同じものを、堀江なら「物語の王道」「作劇の骨法」と呼ぶのではないか。むしろ、物語には(主題的にも構造的にも)遵守すべき規範があってしかるべきであると。「友情・努力・勝利」のスローガンはそれを送り手が本気で信じたからこそ力を持っていたのだ。この映画の面白さを認めることは「エヴァンゲリオン以後の10年はいったい何だったのか」という話でもある。もっともその10年への忸怩たる思いが映画『北斗の拳』を作らせたと思えば、その強度は単なる時代錯誤ではなく、やはり時代に鍛えられたものでもあるのだろう。