健脚商売2

午後2時半頃に石神井公園まで歩いてみようと思い立つ。途中で買ったコッペパンを齧りながら、いつもの道の風景を眺めつつ歩く。速度が遅くなったぶん視覚的な情報量は増えるのだが、鮮やかな花も紅葉も去った冬枯れの巷に目を楽しませるものは乏しい。それでも青空を背負った百日紅の並木の、白い斑の幹やごつごつした枝振りの眺めは面白い。やがて小一時間もすると公園に着いた。目的意識をできるだけ忘れ、ぼんやりと歩くのが徒歩行のコツだ。
それでも結構な運動であり腹も減る。茶店に入りカレー丼を注文。久住昌之谷口ジロー孤独のグルメ』(扶桑社文庫)を読んで以来、主人公と同じ場所で同じものを食べてみたかったのだ。露天で丼が来るのを待つ間に周りを見回す。露天席も座敷も客で埋まっている。犬を連れて散歩中の人、子供連れの若夫婦、話を弾ませる老人たち。池の水鳥に向けてレンズの砲列を向ける日曜カメラマンたち。早朝や平日の昼間とは違う、休日の公園の姿がそこにある。まっとうな生活者が作る風景。だがそこに私の居場所がないわけでもない。やがてカレー丼が到着。片栗粉でとろみを付けた和風だしのカレーの上に、色鮮やかなグリンピースが並んでいる。ありのままのカレー丼。スプーンではなく箸で旨そうに丼をかき込む私の姿を見て、犬を連れた男が酒と味噌おでんを追加した。バタフライ効果だ(たぶん違う)。
空になった丼を下げ茶店を出、ぶらぶらと池の周りを歩く。そう寒いとも思わなかったが、結構な厚みで氷が張っている。明らかに数の増えた鴨に餌を撒く人が何人か。餌に釣られて鴨が密集し、ウッドデッキまで人を恐れず上がってくる。池の杭にはカワウが4羽。いつもは三宝寺池では見ないコガモの群れも来ていた。たくさんの犬と人、将棋を差す老人たち、子供の歓声。その中を一人歩く私も風景の一部であることを許されている。心の空虚を埋める役割において、寂しさも幸せと同等の充実をもたらすのかもしれない。
石神井公園駅前のドトールピーター・バラカン『魂のゆくえ』読む。著者によれば「ソウル」は70年代で終わった音楽であるらしい。ならばそれは「プログレ」と似てはいないか。そう考えると、両者の批評家やファンの気質に似通った部分があるようにも納得されてくる。
店を出るとすっかり日が落ちており、さすがに帰りは電車とバスを乗り継いで家まで。