CORNELIUS『Sensuous』(06年)

これほどヘッドホンを外してスピーカーを鳴らすのが待ち遠しかった音楽はそう多くない。冒頭の表題曲、アコースティックギターの爪弾きの一音一音が、異なる定位にそれぞれ配置されているその企み、響きの、オーディオファイル的なクオリティにまず息を飲む。再生ハードによって階層化されたポップミュージックの、これはかなり上層に位置する音楽だろう。そのことがすでに反発を招くかもしれないが、今更言ってみても仕方がない。文化の平等性というのは嘘なのだ。Macintosh(→iPodiTunes)とMcIntoshが決してケーブルで結ばれることはないように。
楽器の生演奏もサンプリング音源もシンセサイザーの合成音も、そして小山田圭吾の魅力的な声も、全てを素材として扱いデスクトップ上で配列する手管は、前作『point』(01年)の延長上にあるが、『Sensuous』にはかつて『point』から受けたような前衛感が希薄で、むしろ現在のダンスミュージックと同列の、体を揺り動かす素直な説得力と高揚感がある。その感触は続編の安心感というよりも、むしろ受け手側の「ポップス」に対する幅が広がったことによるのだろう。それが『point』からの5年間に起きた変化であり、その端緒にCORNELIUS小山田圭吾の存在もあったのは確かだ。
生ギターのフレーズや生ドラムのリズムが実際には連続した演奏でなく、一音ずつのパッチワークであったとしてももはや驚かないが、演奏そのものがヴァーチャルだとしても、そこからは演奏家としての小山田の生々しい身体性も少なからず伝わってくる。(「音響派」という忘れられようとしている言葉に代わる)「ポスト・ロック」的なアプローチとは別に、先祖返りめいた「テクノ」の意匠が顔を覗かせているように聞こえるのは、小山田がここ数年YMOの3人とライヴ活動を共にしたことのフィードバックが、非常に良い形で現れてもいるのだろう。そして、緻密に組み立てられた楽音のレイヤーを掻き分けて、懐かしい小山田圭吾の柔らかいヴォーカルが立ち現れるとき、その「Music」は私たちの住む日常の地平に降りてくる。それまでの音空間を占める質量に圧倒されながらも、正直この瞬間に安堵してしまうのを許してほしい。
『Sensuous』は再生環境に大きく左右される音楽かもしれないが、秘められたポテンシャルはオーディオチェックCD、あるいはベッドルーム・ミュージックの器に収まるものではない。この音楽をバンドとともに、大きな会場であるいは広い空の下で、大音量で演奏する小山田の姿を観たいと思ったのは私だけではないはずだ。