『時をかける少女』(細田守監督)

レコードフェアの後、レコードの袋を抱えたまま新宿へ。3度目の『時かけ』を観る。すでに優れた感想が出揃っており私が書くことなどほとんどないので、せめて鑑賞後の(←ここ重要)補助線になるような論考を2点紹介しておきたい。
SLEEPYDOGー見えない先を走っていこう
いわゆるタイムパラドックスの考察とは一線を画す、映画内の時間の流れを追った丁寧な解析。
小黒祐一郎「アニメ様の七転八倒 第65回『時をかける少女』とモラトリアムの特権」
関係者でもある小黒氏が、作品の魅力とテーマを端的に指摘。


とはいえ、ひとの感想の紹介だけでお茶を濁そうというのはあんまりなので、少し思うところを記したい。
時かけ』がモラトリアムの映画であるのはその通りだと思うが、重要なのは主人公である真琴が、自分がモラトリアムの渦中にあることを認識していない能天気で自意識の希薄な人物として描かれており、また映画の観客もそのような「無自覚にモラトリアムの特権を享受している若者」が想定されていることだ。これは青春映画としてあたりまえのようだが、アニメ映画としては希有なことではないか。
元アニメファンが作りアニメファンが消費する多くのアニメにあって、「いい歳をしてモラトリアムってますが、何か?」と居直る観客に向けて作る以上、モラトリアムを全肯定するにしろそこからの卒業を促すにしろ、そこには自己言及性・メタ性が生じざるをえない。そうした閉じた輪から抜け出すことで一般性を獲得したのがスタジオジブリだが*1、『時かけ』はタイムリープというこの上ない思春期性のメタファーをもって、鮮やかに「普通の青春映画」を実現している。そこに細田監督の私小説的な自己投影がほとんど見られないことは特筆すべきだ。唯一の例外が「魔女おばさん」こと芳山和子で、彼女は真琴と自分自身のモラトリアム性を自覚した超越的な視点を持っていて、それが大人のずるさと映らなくもない。監督は真琴と和子のどちらの生き方も否定しないと言うが、それにしては和子は幸薄そうに見える。もっとも「モラトリアムを生きる大人の救済の物語」はこの映画に期待するものではないだろう。
技術的には、まず最初の野球のシーンで、影のないキャラクターが揺らめきながら一切の止めを作らずに動き続ける「作画アニメ」としての充実ぶりに驚かされる。というのも、私は細田守東映佐藤順一系の「引き算の演出」の人で、例の同ポジションの反復や背景オンリーの多用にしても、省力化と記号性を兼ねる効率重視の方法論だと思っていたからだ。それが『時かけ』では贅沢な作画を得て、『ナージャ』では意図が空回りして笑えなかった繰り返しギャグが充分に機能しているし、背景のみの画面も(あからさまな象徴性は少ないが)印象に残るものになっている。何より不断に動きまくる映画であるからこそ、グレースケールの静止画の連続が、まさに石化した時間の重さを強烈に感じさせる。細田作品の「影なし作画」も、貞本義行のキャラクターがもつフェティッシュなエッジを和らげて(『週刊アスキー』表紙イラストの真琴は、だから少々ぬめりにも似た違和感がある)より一般向けに親しみやすいものにしている。貞本の絵がもともと大塚康生系の「動かして映える」ものであることも今回改めて感じさせられた。細田守はこうした技術的な成り立ちを「制作マッドハウス、作画テレコム、演出東映」と端的に表現しているが、こうした編成の自由度といい、『時をかける少女』は細田がかなりフリーハンドに近い状態で制作しえた初めての作品ではないだろうか。山本二三率いる美術も素晴らしく(背景陣が豪華!)、精細な背景と影なし作画が巧みな色指定を仲立ちに溶け合っている。
新宿の映画館は8月に入って評判の高まりとともに混雑を増し、都内の上映館も増えるという。客層も濃いファンに加えてカップルや女性客が増えた。カルト作家だった宮崎駿が『ナウシカ』で一般に認知されていった頃を思い出す。私は細田守がここまで大向こうに受ける娯楽映画を作れる人だとは思っていなかった。古くからの細田ファンにはそれを寂しく思う人もいるようだが、ここはこの(今のところはまだ)ささやかな成功を喜ぶべきだろう。


蛇足1(ネタバレにつき反転)彼が帰っていった未来が、真琴に与えた影響によって少しだけ変わっていたら嬉しい。あまり明るそうとは思えない未来世界に着いて、ふと見ると子供たちがキャッチボールをしていた、とかね。
蛇足2 真琴を見てると石黒正数それでも町は廻っている』のヒロイン・嵐山歩鳥を思い出して仕方がない。てなわけで歩鳥みたいな元気の良いアホの子が好きな人に細田時かけ』はストライク。と思ったらまさにそういう人がいた!
http://www.annie.ne.jp/~kou-iti/
蛇足3 吉田秋生版のコミカライズって見たくないですか。私だけですか。
蛇足4 投影される自己=怨念の希薄さといい、作画の充実といい『時かけ』がこのような映画に仕上がったのは、前作『オマツリ男爵と秘密の島』があったからなのだろう、と想像しつつ私は観てないのだった。やはり観ないと。

*1:もっともジブリが別の閉塞に囚われているのは『ゲド戦記』で明らかになったとおり。