『ユリイカ』9月号「特集 はっぴいえんど 35年目の夏なんです」

冒頭に収められた松本隆町田康細野晴臣大里俊晴による二つの対談が本書の白眉だ。
およそはっぴいえんどとは縁がないと思われる出自でありながら、だからこそ客観的に語ることのできる距離感を得た論者によって、松本も細野もこれまで語られたことのなかった言葉を引き出されている。この二人を選んだことがまず編集部の慧眼だ。

町田 なんかみんなすごくつまらなそうな顔してるんですよ(笑)。ものすごい不機嫌な顔をしている。(略)そこに「何かをやろう」というのと同時に「何かをやらないでおこう」「何かにならないでおこう」という決然とした意志のようなものを感じたんです。

町田 ロックフォークフィクションを嫌って、そこで作者と演者がイコールなように作るのが普通ですが、はっぴいえんどの場合はちょっと錯綜した事情があって、そのうえでもう一度、イコールではないように作ってある、つまり私小説小説に作ってあるんじゃないかと思いました。

前者ははっぴいえんどの政治性を、後者は歌謡曲的物語性とロック/フォーク的自伝性の双方との距離を、端的な言葉で言い尽くしている。特に最初の指摘を受けて松本が

まず、町田さんの世代と僕たちとで決定的に違うのは、政治が日常にあったことですね。

と語り出す、学園闘争の時代のキャンパスとの齟齬感は、これまでにも語られてはきたが、これまでになくリアルな感触を持っている。
一方、大里俊晴細野晴臣の対談でも興味深い展開がある。細野の言葉は音としての面白さを重視したものだという大里の指摘を受けて、細野がそれを肯定する流れの中で

大里 そういった見地から、今のラップなんかも楽しんで聴けますか。
細野 いやいや、何言ってるかわかんないですもの(笑)。(略)僕がそういう音楽を作っていたときの意図っていうのは、ノヴェルティ・ソングなんですよ。決してラヴソングでもないし、何かをメッセージするわけでもない。

と発言するのだが、このことは細野が『COME★BACK』を最後にヒップホップと袂を分かつ成り行きを裏付けているように思われた。(拙文参照id:marron555:20040720#p2)
あるいは、細野ベースの親指奏法に触れて

大里 親指じゃなきゃ出ない音っていうのがあるんですか。
細野 あります。(略)僕は伸びっぱなしの音が嫌いなんです。音というのは必ずミュートをしないといつまでも鳴っている。ピアノだってダンパー・ペダルがあるように、楽器というのはそれを手や足でコントロールするわけです。ベースに関しては、どこでミュートするかというのはいろんな方法があるけれども、親指の腹でやるのが一番早いんですよ。だから親指で弾くとミュートがとても簡単にできる。

ベーシストにとっては自明であっても、こうした演奏の実態が細野の口から音楽誌で語られたことはなかったと思う。些末と思われるかもしれないが、私が読みたいのはこういうところなのだ。
この優れた対談は「(もともとの)はっぴいえんどファンではない音楽家の論客」によってなされたものだが、その一方で「はっぴいえんどファンであることを隠さない、畑違いの論客」も文章を寄せているのがまた面白い。内田樹による大滝詠一論では

(ふつうはこうした文章では敬称を略するのですが、どうにも抵抗感があるので、敬称つきで続けさせて頂きます)

という堂々たる表明のもと、文中「大瀧さん」と呼んでいる。岡崎乾二郎による細野論にいたっては、細野晴臣というフルネームでは敬称略であるにも関わらず、「細野」という名字で記す際には呼び捨て忍びなく、しかし「細野さん」と呼ぶのも馴れ馴れしく、苦肉の策で「細野(さん)」と括弧付きの(さん)を加えているのだ。こういう屈折したデリカシーが好ましい。