「海外文学の世界は、翻訳家主導型」

海外文学の世界は、翻訳家主導型である。翻訳家が評論家、批評家、書評者を兼務しているケースがあまりにも多いため、どうしても翻訳家主導型になる。(略)翻訳家はなによりもまず作品を理解することを第一目的とする。理解できなければ翻訳できないのだから、これは当然だ。(略)
こういう翻訳系の評論や批評に関して、もっとも疑問に思うことは「これだと絶対に作者には勝てない」ということだ。
わたしは翻訳系の殊能将之センセー論なら、どんなにすぐれた論客のものでも、必ず勝てる。なぜなら「オレはそんなことは意図していないし、書いた覚えもない。あんたの言うことは最初から最後まで作者の意図に反した謬論だ」と主張するだけでいいからである。どうして批評家の多くがこうした必敗の戦術をとるのか、理解に苦しむ。(略)
殊能将之氏の日記より。

ここでの殊能氏の論点は(略してしまったが)翻訳家のような読み方をする一般読者に対する「もっと好きなように読めばいいんじゃないですか」という呼び掛けのほうにあるので、以下の私の反応は少々ずれている。
海外文学の世界が翻訳家主導型であるのは「海外」という地理的/言語的距離に負うところが大きい。原書を原語で読めることをまず前提に、情報収集力やアンテナの感度が問われる。そうした職能も権威の拠り所の一つだろう。
一方、「翻訳系」の論が作者の全てを理解しているという作者代弁型、あるいは作者憑依型になるというのは、これも地理的/言語的距離に隔てられて「インタビューやプロフィールなど作者の情報が少ない」がゆえに想像の余地が広がり、さらには「作者自身による反論がまず返って来ない」ことによるのではないか。むしろ積極的な解釈が読者の理解を助ける、くらいの使命感さえあるかもしれない。インターネットによって情報量が増え、作者自身がサイトを運営していることも多い今となっては、翻訳文化も変化していくのだろう。
こうした在り方は洋楽文化の受容にも通じるように思う。
「音楽ライター」ではなく「音楽評論家」が成立しうる権威を支えていたのは、「事情通」としての価値でもあっただろう。あるいは、ミュージシャン本人からの反論の不可能を前提にした架空対談なんてものまであった。その架空対談を掲載していた『ロッキング・オン』系の音楽評論がミュージシャンの人物像に寄り添う「作者憑依型」であることは、世界の大きさが縮まる以前の、舶来信仰としての洋楽文化の名残りであるのかもしれない。