ハードルは倒しながら走るもの

終日強風。締め切りの雨戸が激しく音を立てて揺れる。雲は吹き払われて快晴だったようだ。もっとも私が見た空の色はもはや青ではなく、薄紫の西の端が茜に染まっていたが。
狭い歩道を自転車で走ると、対面から親子連れ2台の自転車が向かってきたので、脇に避けて通り過ぎるのを待つ。すれ違いざま母親が「すみません」と言うと、後を追う小さな息子が無邪気な声で「なんで?」と尋ねた。遠ざかる親子のその後の会話は聞こえなかったが、おそらく「道を譲られたから礼を言ったのだ」という説明がなされるだろう。こうして子供は社会に属する人となっていく。
成蹊大前の「すき家」でカレーを食べていると、女の子が1人で入ってきた。牛丼屋は女子1人で入るにはハードルが高いなどというが、ハードルが低くなったのか脚力が強いのか。だが、彼女は券売機を通り過ぎ手洗いに直行。数分後、何も注文せずにそのまま出ていった。うーん、これは緊急事態だったのか。私ならこういう場合、申し訳ないと思って無理にでも何か注文するだろう。彼女がそうしなかったのは図太いのか、一刻も早くこの場を立ち去りたいという繊細さなのか。
先日、武蔵境の踏み切りでのこと。「開かずの踏み切り」の悪名を返上すべく同駅では高架化の工事が進んでおり、それに伴いこの踏み切りも取り払われた線路の分だけ渡る距離が短くなっている。とはいえ、やはりそれなりの時間はかかるので、私含め多くの人が電車の通過を待っていた。すると、人々の群れの後方から歩み寄る一人の男が、実に自然な動作で遮断機を持ち上げると、まったく悪びれる様子もなく小走りにもならず、悠然と線路を横切り対岸の遮断機の向こうに去っていった。思わず「えっ」と声を上げてしまったのは、その男がネクタイを締めた30代半ばの分別盛りのサラリーマン風で、しかもその違法行為があまりにも自然に行われたからだ。憤りを覚えるよりも、虚を突かれた思いがした。むしろ、自分が融通が利かない野暮なのではないかとさえ思った。
公的な領域を私的な領域に組み入れる、あるいは公的な前提となっているルールを私的に弾力的に解釈することも、いわゆる「世渡り」には必要だろう。店を公衆便所として「のみ」利用するのは、別に禁止されてはいないが心理的にハードルが高い。一方、遮断中の踏み切りを渡るのはそれこそ越えてはいけないハードルだが、安全性を見極める「自己決定能力」によってあっさりと越えてしまえる人間もいる。この「ルールの弾力的解釈」の幅は人によって大きく異なるが、私の場合、それが相当に狭いのかもしれない。踏み切りを無理に渡りたいわけではないし、それを是認などできないが、自分の生きにくさの一部がその「見極め能力の低さ」に由来しているのではないかと思えてしまうのだ。
かくして今日も、車がほとんど来ない横断歩道の前で青信号を待つ私の横を、無数の人々が通り過ぎていくのを見送っている。