『ゲド戦記』(宮崎吾朗監督)

まず予告編の時点で好感を持っていたのが、その線や影を減らした絵柄の簡略化だった。というのも近年の宮崎駿アニメでは、どうあがいても「マンガの絵」の範疇を超えないキャラクターにリアリティを持たせようとして、線が増え影が増え、粘性を帯びるまでに動画枚数が増えていくその様が老醜のようで見苦しかったので(その執念が迫力になっていたことは認めるが)先祖返りのような絵の軽さはむしろ好ましかったのだ。美術にしても書き込みのリアリズムを離れて『ナウシカ』の中村光毅美術を思わせる印象派的な(?)ものになっている。アニメの絵のバランスとしてはこれで充分なのではと思われた。
だが、そうした好印象も、実際に映画本編を観ると失望に変わる。せっかくの軽いキャラクターを得て存分に動かせるはずのアニメートがどうにも弾まない。人物はただ歩き、走り、食べたりするだけで、その動きが感情を写していない。その感情表現にしても、憎しみや怯えには大袈裟に顔を歪め、気力を失えば目の下に隈が出来るという具合で、あまりにも記号そのものだ。特にアレンの表情には失笑を禁じえなかった。失笑といえば画面構成も、ただ人物2人が水平のカメラの前に放り出されているという体のショットが多く、単純なキャラと単純な美術と単純な構図(の連続)の組み合わせは、動画というより童画を思わせる。一言でいえば稚拙だ。それを「素直な作り」と呼ぶなら、なるほどそうかもしれない。
作画スタッフが従来に比べ見劣りするわけではない。それどころか原画陣には大平晋也橋本晋治西尾鉄也もいれば、本田雄黄瀬和哉まで参加しているのだ。にもかかわらずほとんどの場面の動きは精気に欠け凡庸なばかり。監督が素人ならばこそ、周りの優秀なスタッフたちがアイデアを気楽に提出できるのではと思うが、実際には優秀なスタッフが素人監督のコンテに唯々諾々と従っているように見える。過去の宮崎アニメのパッチワークめいた映像も含め、この映画は宮崎駿なき後いかにそのブランドを継承するか、というジブリの戦略にも関わると思うのだが、ならば「巨大な才能に率いられた中央集権体制」ではなく「そこそこの才能が知恵を持ち寄って完成度を高める」ような方法を試すべきではなかったか(未見だが『ブレイブストーリー』はそのように作られていると思う)。その意味では吾朗監督は父よりも、スタッフのアイデアを生かすことに長けた高畑勲監督に学ぶべきだったろう。
内容面に触れれば、「何がいいたいのかわからない」という感想も多い物語だが、そんなことはなかった。少年犯罪の加害者の少年と、児童虐待の被害者の少女が、互いに出会うことによって(なぜか)救われ、その更生が(なぜか)傷ついた世界の恢復(の兆し)に直結する。そういうセカイ系なテーマに、娯楽作として陳腐な勧善懲悪の活劇が絡むという構成はむしろ非常に分かりやすい。『ゲド戦記』ってそんな矮小な話だったっけとも思うが、2時間の映画で語りうる内容の選択として間違ってはいないだろう。BSEもあれば麻薬もあり人身売買もあるという具合に現代性にも事欠かない。
ただし、そうした要素が単なる象徴や事物のままに投げ出され、それらを結びドラマを成立させる理路がない。行動の動機も世界の危機も「光と影」「均衡」と抽象的な言葉で語られるばかりで、そこから生まれるはずの感情の流れに観客が乗ることができない。理路がないのは宮崎アニメの近作も同様だが、それを補って余りある過剰なイメージと情念がそこにはあった。過去の宮崎アニメのイメージを拝借しても、そこにはそれらを生み出した情念が欠けている。活劇部分もただ段取りを消化するだけで一向に高揚しない。声優の演技は評判ほど悪くなかったし(テルー除く)台詞もしっかり聴き取れたものの、その台詞があまりにも陳腐。アレンの口から「他者云々」と出たときにはさすがに呆れた。劇中で歌われる「テルーの唄」も平成のJポップでしかなく、ファンタジーの世界観を損ねるばかりだ。
と、散々な書きようになってしまったが、それでも世間の評判ほど酷いものだとは思わない。私なら星2.5はさしあげる。空疎ではあっても不快ではなかった。ただ、2時間を快適なシートで涼みながらぼんやりと過ごす以外の楽しみを求めるなら、ほかの映画を勧めたい。家族向けなら『パイレーツ・オブ・カリビアン』とかさ。
ところで、最初に宮崎駿が『ゲド戦記』を映画化しようと試みたのはテレコム時代だと思うが、このときは原作者の許可が下りなかった。ただし『ゲド戦記』のためのアイデアやモチーフは、以後の宮崎作品の中で消化されることになった。『長靴下のピッピ』の挫折が『ハイジ』以後の展開を用意したように、『ゲド戦記』の挫折が『ナウシカ』以後の展開を用意したのだともいえる。もし宮崎駿が油の乗ったテレコムのスタッフを率いて(しかも第4部が発表されていない時点での英雄譚として)『ゲド戦記』を映像化していたら、アニメの歴史は変わっていただろう。『ゲド戦記』映像化の実現は25年遅かった。


ちなみに私はデジタル上映目当てにT.ジョイ大泉で観たのだが、初日の土曜日の初回で客入りは8割ほど、もちろん並ばずに観ることができた(全席指定)。ここが穴場なのか客足が悪いのか。
追記 すみません、大平晋也氏は『ゲド戦記』に参加してません。私の記憶違いでした。失礼しました。