やるきがでませんかけません
なので他所の話題に絡んで、雑談風にヲタ話でも。
アニメーターのわずかな個性も許さないアニメファンに絶望した! - ARTIFACT@ハテナ系
私もいいかげん古いんで、アニメ雑誌で作画スタジオが特集され「作画の暴走」が称賛された時代の人なんですが、アニメーターの個性をどこまで許容するか、というのは作品なり演出なりの要求から導かれるものでしょう。『セーラームーン』の安藤正浩作画は「アジ」で許される範囲を超えていたし、『ヤマト』は全話芦田豊雄作画で観たかった。宮崎駿や安彦良和や杉野昭夫のように徹底的に原画に手を入れるタイプが好きだったので、押井守が『うる星やつら』の頃に言っていた「スタッフに任せて一緒に心中」というのは一面無責任だとも思ってました。なので、作画に統一感を求める志向というのは最近のファンに限ったことでもなかろうと。
ただ、「作画の暴走」もそれはそれで楽しいのは確かなので、週60本もある作品の中から原画マンのノリを大きく生かすようなタイトルを探して楽しむことは難しくないでしょう。『いぬかみっ!』とかマイメロとかスクランとか。いかにアニメーションとして優れていても、OVA『八犬伝』でのなかむらたかしの仕事は褒められたもんじゃないと思うのでした。っていちいち例が古くて申し訳ない。
何故「涼宮ハルヒ」は賛否分かれて、「時かけ」は絶賛の声ばかりなのか(トボフアンカル・ミニ・メディア)
更新再開早々にして議論を呼んでいるところに申し訳ないのですが。騒ぎの大きさにうんざりする心情は共有するものの、ハルヒが「売らんかなの商売」だというのはちょっと違うのではと思うので。
私の思うところのハルヒ観というのは以下のようなものです。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=169285368&owner_id=6243
あんまりここでは書きたくなかったんだけど、もういいよね。第二次惑星開発委員会の座談会も出たことだし(笑)。まあmixiなんで読めない人は読めないんだけど、読めない人がいるくらいでちょうどいいんですよ!(何だそれ)
ところで細田版『時をかける少女』って、本来は惑星座談会で言うところの『リンダリンダリンダ』『ハチクロ』の側の映画だよね。私は金を落とさない程度に『ハルヒ』を楽しみましたが、『時かけ』も『リンダ』も『ハチクロ』も好きなんですよ。いや別に輝かしい青春を送ったわけでもモテもしませんでしたけど、「自分のことを棚に上げて楽しむ」くらいの距離感が、フィクションに対する大人の分別というものでしょう。イケメン俳優が主役のドラマもどんとこい!
『時かけ』についてはそのうち書きます。2回観てパンフと絵コンテと公式ガイドブックと原作小説まで買ったので(笑)。『ゲド戦記』は萎える心を奮い立たせて前売り買おうと思います。
追記。上記リンク先(T:M:M)で問題になっている「『ハルヒ』と『時かけ』の比較」について。
「世界は私のもの」という「(思春期には)よくあること」な全能感を抱いた少女が(特殊能力はそのメタファー)、自分の思い通りにならない存在(他者としての恋愛対象)と出会い、他者との共存を選ぶことにより、揺るぎなく平凡な日常の中に生きる喜びを見出す。
という共通の図式が『時かけ』と(おそらく)『ハルヒ』を比較すると浮かび上がってくるのですが、ここから言えるのは『ハルヒ』が『時かけ』同様に「思春期小説」としての普遍性を備えているという単純な事実でしょう。ただし『時かけ』はジュブナイルで『ハルヒ』はライトノベルである、この両者を分けるのは何か。『ハルヒ』にあって『時かけ』にないものは、ジャンル内自己言及性、メタ性ではないかと思うのです。自己言及性、メタ性をあらかじめ含み込んだジャンルが「ライトノベル」だと言えるかもしれない。で、万人受けするジュブナイルに比べ、ライトノベルはテーマや読者対象の先鋭化は避けられない。
というようなことを考えるうえで、両者の比較は無駄でもないと思うのでした。考えてどうなるものでもないか。