赤江瀑『ニジンスキーの手』(角川文庫)

古書店で購入(300円)。後にハルキ文庫で再刊されたが入手困難らしい。
京都・伝統芸能ホモセクシュアル。本書に収録された4作品に共通するのがこれらのモチーフだ。京都という歴史と現在がせめぎ合う街で、バレエや歌舞伎、能、現代詩(これも伝統芸だろう)などの芸能の世界に生きる男たちの葛藤を描く、という構造がそれぞれの作品で反復される。そこに登場する一対の男たちは、それぞれに同性愛の性向・体験を持ちながら、互いに性行為を交えることがない。2人の間に社会的地位や才能の落差はあるものの、決して性交をしないことによって、そこには対等の緊張関係が保たれている。ある作品の中で、こういう台詞がある。

「xxは、そのために死んだんだ!!(中略)あんたが……xxを、女にしたからさ!」

私はこの場面で、橋本治『その後の仁義なき桃尻娘』において「オカマの源ちゃん」こと木川田源一が繰り返し「俺、女じゃないもん……」と呟いていたことを思い出した。木川田くんは同性の先輩が好きだったけれど、先輩の「女」になりたかったわけではないのだ。男に抱かれた男は「女」になってしまう。そこには取り返しのつかない依存、権力関係が生じる。対等な男同士であろうとするならば決して寝てはいけない。その意味で赤江瀑の作品世界はマッチョだ。赤江が伝統芸能に取材するのは、その世界が基本的にホモソーシャルであり、女性を排除して成立するものだからだろう。
そう、この作品集は徹底して男の世界であり、女はそこから完全に疎外されている。特に「禽獣の門」に登場する能役者の妻に対する仕打ちはあまりにも酷い。彼女は「芸」という「男の美意識」から排除され、妻という同伴者であることも叶わず、決して理解することのできない夫の、一観客であることすら許されないのだから。
「ホモの嫌いな女子なんていません!!」 だが、その「ホモ」とは「女子」に理解可能な関係性の記号に翻訳された「ホモ」でしかない。赤江瀑の描く男たちの間の張り詰めたテンションは、女性読者にとってのもてなしの良いファンタジーではなく、本質的な意味で「ガチ」だ。そこには男女関係と代替可能な「攻」「受」は存在しない。そのガチっぷりには必ずしも共感できないのだけれど、ここには普遍的な文化系男子の病(ホモソーシャル性)が表現されているのかもしれないとは思う。解説を中井英夫が書いているのも実に似付かわしい(かの『虚無への供物』と赤江瀑の関わりにも触れている)。


蛇足。「獣林寺妖変」の「古寺の天井に染みついた戦国時代の血に混じる、真新しい血液反応」というような、ミステリ的に魅力的な描写が本作品集にはいくつも現れるが、作者はその謎解きには執着せずにあっさりと済ませている。こうした赤江瀑作品の世界観を本格ミステリにブロウアップすると連城三紀彦になりそうな気がするのだが、影響関係はあったりするのだろうか。
蛇足2。赤江瀑の作品はいくつか映画化されているけれど、私はこの本を読みながら、70年代のATGで実相寺昭雄監督に撮ってほしかったと思った。