墨絵の国へ

午前10時過ぎ、宅配便の呼ぶ声で目が覚める。実家から送ると言っていた食料品だろう。急いでジーンズを穿き、眼鏡を探す。
枕元に置かれた眼鏡は、ブリッジが折れて綺麗に左右に分かれていた。慌てて飛び起きた拍子に踏んだのだろう、セルフレームのブリッジの断面は、ハンマーで割った水晶のそれのようになめらかな光沢を帯びていた。
茫然とする意識を掻き集めて荷物を受け取る。機械的に荷解きをして生鮮品を冷蔵庫に収めた後、身支度をして外に出る。灰色の空、灰色の壁、葉の落ちた木々。視力の落ちた裸眼で見る無彩色の風景は、輪郭線がぼんやりと溶けて墨絵の世界だ。落ちてきたのは雨か雪か。100円の巡回バスに乗り吉祥寺へ。眼鏡量販店でレンズに合うフレームを探してもらうが、デザインに選択肢がないうえに思いのほか高価。自転車が買えるよ。背に腹は代えられず大枚を支払う。あえて「良かった」探しをするなら、掛けてみるとそう悪い見栄えでもなかったこと、レンズの取り付け角度が変わったせいか以前より良く見えるような気がすることか。
だが、悶えるのはここからだ。1年以内に破損した場合には2割の自己負担で修理が可能だと説明された。もしや今回の破損も、せいぜい3千円程度の損失で済んだのではないか。バス代を惜しむ理性を取り戻して徒歩で帰宅後、購入時の保証書を探したが見当たらず。確認してどうなるものでもなく、いずれ保証期間は過ぎていただろうが、おかげで無駄金を使ったとしても悔いる材料がなくなった。これを3つ目の「良かった」にしよう。もっとも悔いるなら、眼鏡を床に置かなければ、起こされる前に早起きしていれば、荷物など送られて来なければ、などいくらでも遡ることができるが、行きつく先は「生まれて来なければ」なので適当に切り上げる。それにしても痛い。
眼鏡ひと踏み15750円也。