ある筆禍

「球技撲滅すべし」と書いたばかりに、「一部の」球技ファンに粘着されている人がいる。もとより「球技撲滅すべし」は予め実現し得ない欲望であるために自虐的ジョークとしてしか機能し得ないのだが、どうやらテキは完全勝利しなければ気が済まないようだ(他者を敵味方に二分するのはメンヘルの始まりです)。
私は球技がなくなってしまえとは思わない。球技に限らずスポーツ中継を漫然と眺めることはあるが、それは自我と向き合うことを避けるためのフィルターとして機能してくれる。喫茶店で隣の席の会話が煩わしいときにだけ、遮蔽物としてiPodが欲しくなるのに近い。
女性の場合、野球にもサッカーにもラグビーにも一切興味ない、ルールも知らないということは珍しいことではなく、むしろ大多数がそうだろう。ところが男性が所属集団内で同じことを表明すると、コミュニティへの反逆であるかのような敵意ある態度に晒されることが少なくない。奇を衒って悪目立ちしている、くらいのことは思われていそうだ。そうした同調圧力の大きさを、球技嫌いの人は常に感じているのだろう。球技が好き、酒が好き、煙草が好き、女が好き。そうでない男は片輪だと言わんばかりの男性性の脅迫に対する苦痛の(かなり控え目な)表明として「球技撲滅すべし」はある。無論その表明に球技ファンが気分を害されたと主張するのは自由だが、「球技愛すべし」の圧力に苦痛を味わう者の声も、その存在くらいは気に留めていいだろう。「傷つけられた」「不快感を味わった」ことをオールマイティのカードとして用いたがる類の愚かさにはたびたびうんざりさせられるのだが。
とりあえずの世間智として野球やサッカーの話をすれば何とかなる、という程度に男性社会において球技愛は共有されている。というよりむしろ共同性の希求としてその愛があることが、共同体に同調しきれないひねくれ者をアンチ球技へと走らせる。
だが、共同性を志向しない、孤独な趣味としての球技愛というものは存在し得ないのだろうか。例えば、各年代ごとのジャイアンツのスタメンを完璧に諳んじることのできる奴とか。パ・リーグの熱烈なファンであるとか。いわば主流の趣味のなかでの傍流に属する人々は嫌いじゃない。伊集院光えのきどいちろう大瀧詠一といった人たちが嬉々として野球を語る、その愛の在り方はサブカルチャーに似ている。あるいは色川武大が相撲に対して行ったように、架空の球団の架空の選手やスタッフの全てを手作りのカードに記し、架空のプロフィールを全ての選手に加え、架空のオーダーや試合を組み、架空のシーズンを戦い抜く――あくまでも対戦型のゲームではなく、一人遊びとして。そのような倒錯者は、会社や学校でのスポーツの話題に参加できるだろうか。「どんな音楽が好きか」と問われて返答に窮する音楽ファンのように。