諸星大二郎『稗田のモノ語り 魔障ヶ岳-妖怪ハンター』(講談社)

妖怪ハンター」の異名を取る異端の考古学者・稗田礼二郎は、奇妙な遺物「天狗の宝器」の出土地を辿って、修験道の聖地「魔障ヶ岳」を目指す。そこには得体の知れぬ「モノ」の存在があった。それぞれの思惑から稗田とともに「モノ」と関わり合った男女の運命は、魔性の力に翻弄されながら絡み合っていく。
諸星大二郎がそのほぼ全キャリアに渡って描き続けてきた伝奇ロマン「妖怪ハンター」シリーズの最新作は、期待に違わぬ面白さとまずは言えるが、これまでのシリーズ作とは多少性格が異なる。全6章の序章で「魔障ヶ岳」での「モノ」との出会いが描かれ、続く4章で「モノ」と関わった各人物のエピソードが提示され、終章で流れが収束し稗田によって「モノ」の謎が解かれるという構成は、季刊ペースのミステリ誌『メフィスト』に掲載されていたことが影響してもいるのだろう。名前のない「モノ」が名付けられることによって名に応じた力を持つというのは、京極夏彦的でもある。もともと諸星作品には「絵で読む小説」という味わいもあったが、媒体の性格と線の力の衰えもあって、その趣は一層強まった。とはいえ、諸星漫画の魅力を決定するのはやはりその絵であることには違いなく、作劇の「理」を超える怪異描写もさることながら(異なる物質が粘土のように混じりあった「天狗の宝器」は、「生物都市」を描いた諸星ならではのアイテムだ)、物語を賑わす多彩な女性キャラクターの魅力も見逃せない。その独特の艶かしさと、力に翻弄される無力な人間たち、その彼らと「モノ」の力に対して抑制する側に回ろうとする稗田の立場などが相俟って、本作では「大人の妖怪ハンター」という味わいが強い(『少年ジャンプ』から出発した「妖怪ハンター」シリーズは、青年誌に移っても「少年SF漫画」の匂いを残していた)。それも一種の成熟とはいえるだろう。
そうした雰囲気の作中で異彩を放つ人物がラッパー教祖・岩田教天だ。「モノ」を畏れるでも欲望に翻弄されるでもなく、徹底的に自己本位に怪異を面白がろうとする好奇心と行動力は、彼を主役にした別シリーズが作れそうなほどのキャラ立ちだ。終章のこれまでにないとぼけた可笑しみとドライヴ感は、岩田教天の存在なしには考えられない。しかし、「ヒルコ」の頃には存在しなかった携帯電話が重要な役割を果たす時代になっても一向に歳を取らない稗田先生は、サザエさん時空の住人というよりも、稗田阿礼よろしく時を超えた語り部というところか。
ところで蛇足だが『魔障ヶ岳』を読みながら思い出した作品が二つある。一つはタルコフスキーが映画化したストルガツキー兄弟の『ストーカー』だ。宇宙人が遺した正体不明の力が宿る「ゾーン」をめぐり人々の願いが交錯するこの作品に、諸星大二郎がインスパイア(言葉の正しい意味で)されたということはありそうだ。そしてもう一つは高山和雅『奇相天覚』(上下巻 講談社)。『魔障ヶ岳』と同様に「三輪山の神」が登場する伝奇漫画だが、諸星とは対照的にメビウス的な画風と描写力で、SFの巨大なカタストロフを描き切った傑作だ。現在品切状態なので、古本で出会った折にはぜひ御一読をお勧めしたい。