テクニカラー・タイムマシン

『「ASTAIRE」発売遅延申し訳ないです、ライブ』
2005年9月11日 お茶の水LiveHouse KAKADO
出演:ふじたともや/福岡英朗/宮崎貴士

宮崎貴士の2ndアルバム『ASTAIRE』の発売記念ライヴがあると知り、そういえばお茶の水にも久しく行ってないなと、内容もよく確かめないままに中央特快まっしぐら。ニコライ堂の鐘鳴り響くお昼時に小さなライヴハウスで行われた小さな演奏会は、思いがけなく(と言っては失礼だが)豊かで豪華なものだった。


最初に登場したのはふじたともや。普段は結婚式場で仕事をしているという彼、ピアノ弾き語りライヴはこれが2度目だという。その歌の内容は暗さとは縁のないほのぼのとした明るさを感じさせるもの。ピアノのコード感やメロディの動きがお洒落で、ニューミュージックの情念や貧乏臭さからは遠いポップ感がある。バンドでの演奏もちょっと聴いてみたかった。


続く福岡英朗はエレキとアコギのギター弾き語りだが、ストロークで弾きまくるフォークシンガーでも、3コードで唸り声を上げるブルースマンでもない。ソリッドなリズムカッティングから繊細なアルペジオまで巧みかつ多彩なギターワークと、伸びやかで豊かな歌声には、「日本のパブロッカー」の名乗りを納得させるファンキーなノリと色彩感がある。個人的な日常に寄り添ったシンガーソングライターの内省と、ロックンロールのドライヴ感を合わせ持つ親しみやすさは、今回の出演者では一番だろう。


さて、メインアクトの宮崎貴士。宮崎さんもピアノ弾き語りで出演されるものだと思っていたので、佐々木絵実(キキオン)accd、高木コウタロウ(HAYDON)b、堀江健介perのバンドを従えてのステージが、まずは意外な喜びだった。しかもゲストでコーラスとギターに福岡英朗と、コーラスに田中亜矢が加わるという豪華さ。以前に円盤で観た時よりも練度が上がっているのだろう、その演奏は宮崎さんのビジョンをより忠実に描き得ているように思った。今回も高木の歌心あるベースが特に印象的だ。腕のあるバンドに支えられた宮崎さんも、強力に毒の効いたMCと(内容は詳述しないが、あれを笑って楽しめるのが民度の高さというものです)血肉と化したマッカートニーナンバーを手癖のように繰り出す自然体ぶりで、堂々の貫禄を示していた。そんなざっくばらんなキャラクターとは裏腹に、素晴らしく豊かなピアノの響きに乗せて目の前で歌われ演奏される、磨き抜かれたポップソングの数々は、近くで手に取って見ることのできる夢見る宝石のようだ。田中亜矢のたおやかな美声も、音楽を一層優美に輝かせる。
宮崎さんの音楽について語られるとき、ポールが引き合いに出されることも多いが(ポール直系のピアノマンとしての力強さにも驚かされたけれど)、その世界の豊かさはマッカートニー・フォロワーというだけでは無論言い尽くせない。ポールからファンクネスを抜いて、シャンソンやショウ音楽の悲しみ・猥雑さをやや強めた万華鏡のような音楽性の上で、宮崎さんのナイーヴな歌声で表現される世界観は、「誰もがいたことのある、どこにもない場所」への架空のノスタルジーに繋がっている。しかも味わいは淡いくせにどこかケミカルで、合成着色料や甘味料が大量に配合されていそうなテクニカラーの夢だ。それこそがチクロと赤色一号を摂取し、ブルーバックの夢を見て育った世代にふさわしい。1st『少太陽』を聴いて思い浮かべたのは、ポールよりもむしろあがた森魚やPFMの描く、少し怖くて懐かしいファンタジーの暗がりだった。
そのファンタジーを共有するのが作詞の足立守正であり(当森正としてアートワークも担当)盟友の岸野雄一であるわけだが、アンコールでその岸野さんの登場に、会場から大きな拍手と歓声が上がる。岸野作詞・宮崎作曲による「50年目の試写会」(『少太陽』所収)を岸野さんが歌うのを聴き、一人芝居を宮崎さんの歌に合わせて演じるのを見ながら、胸が締め付けられる思いを味わった。たとえば北野勇作の、奇怪だが懐かしい覚めない夢を描いた小説世界では、このような曲が流れているに違いない。


リバプールからバーバンクに広がる、虚構性の高いポップスを分母に持つであろう3人の共演には、フォークやロックの重力から解放された自由があった。CDを買ったので本屋にも「いもや」にも寄れず、東京18区へ投票しに帰ったけれど、財布が軽くなったぶん心も軽い。『少太陽』『ASTAIRE』そして付録のCDRは、この文章を書いている今もホタテiBookの中で回りっぱなしだ。