歴史から遠く離れて

触れたことのない過去の作品は、自分にとってすべて新作。
などと自分でも言ったり書いたりした覚えがあるが、そういう態度はいささか傲慢だったのではないかと思いはじめている。
私は100円から300円ほどの、いわば不人気盤が放り込まれた段ボール箱、いわゆる「エサ箱」から忘れられた音源を回収するのを趣味にしている。エサ箱には60年代から近年に至るレコードの山が、かつてそれが属した文脈や歴史から切り離されて無差別に存在させられている。そこから「現在の耳にも有効性がある」音楽をほじくり出すことを「編集感覚」だの「批評性」だのと悦に入るわけだ。
だが、それは本当に新しい「発見」なのだろうか。それは私たちから看過されつづけた数十年、ずっとそこにあったものなのではないか。
かつて大衆にシリアスな感動を与えた映画やテレビ番組や漫画の表現を「今見ると笑える」ものとして再消費する行為を、私も面白いと思いつつどこかに抵抗も感じていたのだが、これは過去の文化に私たちが接する際に陥りがちな態度でもある。過去の自分の作品が、自分の意図ともリアルタイムな評価からもまったく違う場所でもてはやされているのを眺める、当事者の心境を想像する。無論、今だからこそ真価が認められるという優れた再評価もあるわけだが、それにしてもアメリカ大陸を「発見」したヨーロッパ人のような態度を、過去に対して取ることは慎むべきだろう。
こうした自省を「歴史認識」と呼ぶのかもしれない。
参照 http://www004.upp.so-net.ne.jp/flipside/3月4日、5日の日記