『ハウルの動く城』
3:7くらいで批判が多い評判を勘案しつつ、どうせ寒空に並ぶならと千円で観られる映画の日の今日まで待っていた。
で、評判通り話がさっぱり判らない。パンフレットを読んでも判らない(笑)。ソフィーにかけられた魔法とは何だったのか。ハウルの戦いとは何に対して、どのような意味を持つのかが判らない。荒地の魔女もサリマンもその行動原理がよく判らない。久しぶりに躍動する宮崎メカ、爆発、飛翔といった卓越したイメージも、それらを貫く糸を得ないまま投げ出されていて、ドラマを発生させることがない。
にもかかわらず。予定調和というよりもどんぶり勘定のようなハッピーエンドを迎えた瞬間、私は涙が出そうな幸福感に襲われたのだ。ええもう感動しましたともさ! 自分でも意外だった。
崩壊しながらも核だけで動き続けるハウルの城のように、宮崎駿がそのストーリーテラーぶりも大時代なテーマ性も振り捨てて、最後に残ったボーイミーツガールの物語のあまりの能天気さに打たれる(純粋さと言ってもいいが)。思えば「抑圧を抱えた少年と少女が出会い互いに解放される」物語を、宮崎駿は『ガリバーの宇宙旅行』の昔から描き続けてきたのではなかったか。
今年注目された他のアニメ映画と比べるなら、『イノセンス』には濃密な映像とペダントリーを繋ぐ縦糸として単純きわまりない筋が用意されていたし(→感想)、『MIND GAME』の奔放に見えるイメージには、それが表象する意味が明確にあった(→感想)。『ハウル』にはそのいずれもない。そこには宮崎の趣味性の羅列と、コアとしてのラブストーリーしかない。その曖昧な戦争の描写に、多くの人が死を迎える悲劇を恋愛劇の背景に落とし込んだ『タイタニック』とどこが違う、と問われれば答に窮するが、キャメロンが隠そうとした幼児性を『ハウル』の宮崎は剥き出しにしている、その歓びが客に(というか私に)響いたのではないかと思うのだ。老境の子供返りか(笑)。何となくテリー・ギリアム監督『バロン』に印象が重なったりもする。
ああ、どうもうまく感想がまとめられない。何か思い付いたら追々書くことにしよう。もう一度くらい観に行きそうな気もするし。注目の声の演技、木村拓哉のハウルは完璧な王子様ぶりだった。倍賞千恵子のソフィーの老け声はどうかという話だが、ヒルダもローザ姫もフィオリーナもラナもあんな声でしたよ? 問題無し! いわゆる「駄目絶対音感」*1が働かないぶん、むしろ匿名的なキャスティングではあるまいか。ところで今回の絵柄って、ちょっと森薫っぽい感じがしたりしなかったり。などと映画本編並みに散漫な書きっぷりだ。
*1:どの声優が演じているか聞き分ける能力。