久米田康治『かってに改蔵』最終回に寄せて

先に立ち読みしてしまったので購入しようか迷ったのだが、ようやく久米田康治かってに改蔵』最終回掲載の『週刊少年サンデー』を購入した。*1
かってに改蔵』とは、徹底的に「言葉の力」に依った漫画であった。いかにももっともらしいもの、あるいはいかにもヤバげであるにも関わらずスルーされているものに対し、適確な名前を与えることによって、その本質を明るみに出す。「王様は裸だ!」と指摘するに留まらず、時には「オマエはバカにしか見えない服を着ているのだ!」と無理矢理裸にしてしまう有り様。言葉とは古代の言霊のように、新たな現実を創造する力さえ持っているのだ。*2それはまさに「批評」そのものである。「批評」とは言葉によって自己と自己の外部との距離を測定する営みであり、内部と外部とによって構成される「世界」を認識する行為である。それは人が生きている限り終わることがない。言い換えれば「批評」を続ける限り、人は不滅の命を持つのである。『かってに改蔵』はその不断の批評行為によって、『週刊少年サンデー』誌上で永遠に生き続けるはずであった。
最終回において、その恐るべき「言葉の力」を行使するのは、部長である。彼女はその言葉によって、改蔵と羽美を「もっともっと大きな世界」への「扉」に導く。
一方で、これまで主人公として強大な「言葉の力」をほしいままにしてきた改蔵と羽美は、一切の言葉を発することを禁じられている。ラストの美しい風景の中で二人が寄り添う場面には、確かに言葉が添えられているものの、それは吹き出しに囲まれておらず、心内語ともナレーションとも受け取れる。書き割りの美しい背景に、何者かが書き込んだ言葉かもしれないのである。その何者かとは誰か。
この最終回はいかにももっともらしい。それを作者の変節と取る者もいるだろう。だが、この最終回そのものが、部長のいかにももっともらしい「言葉の力」のみによって、いかにももっともらしく仕立て上げられた箱庭にほかならないのであり、作者がそのもっともらしさ自体によって虚偽を暴こうとしたのではないと誰が言えるだろう。それは作品の生命を賭けた、捨て身の告発だったのかもしれない。
そこまでしなければ抗うことができなかった、作者に恐るべき現実を強制する力を持つ「言葉」とは、誰の、どのようなものだったのだろうか。


「久米田先生もそろそろ、もっともっと大きな世界への扉を開く時が来ていると思うんですよね」
「……………」
「そういうわけで、『改蔵』あと3〜4週で終わらせて☆」
「………?………!!!!!」


いやまあそんなオチで。

*1:ブックスーパーいとう(古本チェーン店)で。100円。

*2:いいがかりとも言う。