「そして」「そう!」

書店で本を手に取るふりをして涼を取っていると、若い男が何事か唱えながら店内を練り歩きはじめた。終わりなくループされるその言葉につい耳を奪われる。
アバレンジャー そして デカレンジャー そう!」
たまたま目にした特撮雑誌の見出しを繰り返していたのかもしれないが、「アバレンジャー」「デカレンジャー」という固有名詞の選択、「そして」という接続詞のもっともらしさ、「そう!」という間投詞の無意味な力強さが、詩の一節を朗唱するような口調と相俟って、絶妙な可笑しさを生み出していた。私は笑いを噛み殺しながらその場を離れた。
生活を営む上で必要な語彙は全て脳に格納されているのに、意味を統御するソフトが壊れている。それでも発話しようとする欲求が、辛うじて繋がりのある文章を構成し、人の大勢集まる場所で音声化を試みる。
これは「世間」での営みに形は似ているが、決定的に異なる。彼は不可視であり、彼の言葉は暗闇に吸われて誰にも届かない。それでも彼は街に出て、意味を成さない言葉を繰り出しては「世間の形」をなぞろうとするのだ。壊れた言葉を誰かが拾うのをぼんやりと願いながら。いったい彼と私との間を、何ものがどれだけ隔てているのだろうか。
そんな問いを熱暴走しかけた頭で処理できぬまま、「そして」私は線路を渡り、エクセルシオールカフェに向かった。今度こそアイスパールラテ(タピオカが底に沈んだ中華コーヒー牛乳の謂い)など注文するまいと念じながら。「そう!」