『スパイダーマン2』
私のように1シーズンに映画を1本観るか観ないかの者にとっては、昼下がりの蕎麦屋で日本酒を嘗めつつ啜る鴨せいろではなく、安い食材を新奇な取り合わせで差し出す創作料理でもなく、値段なりの満足感と贅沢感が味わえる定番の一皿が望ましい。『スパイダーマン2』はそういう映画だった。いやー面白かったよ!
ヒーローの苦悩という日本のおたく表現の肝でもあるモチーフが、日本のそれのように自家中毒に陥ることなく、娯楽映画の王道となりえているのは、スパイダーマンことピーター・パーカーが抽象的な世界(あえてカタカナでは書かない)と自分との間に「世間」「生活」を背負った苦労人であるからであり、「授かった才能は世に生かすべし」「正義のためには自己を犠牲にすべし」というアメリカ人の価値観が全編を貫いているからだろう。主人公が拠って立つ倫理の正当性が、ヒーロー物のカタルシスの根拠なのだ。現在の日本でヒーロー物を作るとジャンル批評的なものになってしまうのは、この根拠の揺らぎに理由があるのだろう。
今回の映画では、ピーターがボディースーツは着たままで、マスクを脱ぎ素顔で戦う場面が目立つのだが、これはスパイダーマン/ピーター・パーカーが、ただの人でありながら(であるからこそ)ヒーローでもあるという両義性を表現している。貧乏学生のピーターが、珍奇な衣装をボロボロにし、素顔をさらけ出しながら電車の暴走を止めようとするシーンは、だからこの映画の中で最も感動的なのだ。