北野勇作『人面町四丁目』(角川ホラー文庫)

同文庫1作目の『ハグルマ』は、北野小説の得体の知れない無気味さが、むしろ「ホラー」という体を得て損なわれたような感があった。それがこの2作目では、ホラーというジャンル意識は言い訳程度に、完全な北野SFを展開している。特に終盤、北野作品ではお馴染みの世界観とリンクするのだが、これは作者が一つの「架空のノスタルジー」を描こうとしているということなのだろう。そのノスタルジーはおそらく世代的なもので、私などもよく共有するところだ。
大災害に遭い逃れた先で出会った女に連れられて、やってきたのが旧地名にして通称「人面町」。
主人公は売れないホラー作家。木造平家の一戸建てに、妻となった女と暮らす平穏な日々。
だがしかし作者は北野勇作なので、現実の像は奇妙にぶれている。妻の実家では町名の由来ともなった「人面」の工場を営み、妻は工場から逃げた「人面魚」を捕まえて家計の足しにしている。主人公の仕事場代わりの喫茶店には、人を襲う巨大な「こっこちゃん」が訪れる。自転車で螺旋を描く坂道を下ると、いつのまにか世界は裏返しになっている。
こうした怪異の数々を、主人公は特別におかしなこととも思わず、日常の一部として淡々と受け入れている。その異界の町内のナビゲーターが妻なのだが、町の秘密に通じた彼女は、どうやら主人公について本人も知らない事実を知っているらしい。この奥さんのキャラクターが良い。半ば異界の住人でありながら、その半分は妻であり主婦であるような日常を平然と生きている。諸星大二郎栞と紙魚子』シリーズに登場するゼノ奥さんに通じる人物像だ(ゼノ奥さんは人物とは言えないかもしれないが)。
こうして主人公は不思議な妻と、不思議な町の日々をともに生きる。
その不思議の中で、主人公が属する現実も、主人公自身も不思議なものに変えられていくのだが、それでも日々は揺るぎなく繰り返す。
状況を動かすことへの主体的な意志や、逆に世界に関わることの不可能性に対する絶望を描くのが、SFの持つ青春小説的な性質だとすれば、北野勇作のSFはその正反対にある。大状況がどんなに揺るごうとも、個人の力がどんなに無力であろうとも、ささやかな場所を得てささやかな日常を生きるスタンスは揺るがない。そのような人物像を描く北野SFは、いわば「中年小説」としてのSFだ。「異形の私小説」と呼びたいその世界は、色川武大『怪しい来客簿』なども連想させる。色川の場合は現実と異界との接点に個人的な病があり、そこに「私小説」としての凄みがあるのだが、北野勇作が描く異界はどれだけ凄惨さを加えようとも、どこか情念が希薄で色が淡い。それは北野異界が、先に述べたある世代が共有する、メディア体験も含んだ架空のノスタルジーと繋がっているからだろう。その世代がまさに現在の「中年」なのである。
作者とほぼ同世代に属する私は、世界の破滅の淵で足掻く、あるいは嘆く「思春期小説」よりも、北野勇作が描く中年的世界観に共感と安らぎを覚えるのだ。