田中小実昌『香具師の旅』(河出文庫)

感想を書きたいのだがうまくまとめられない。
ただ、印象を語るなら、冒頭に収められた直木賞受賞作「浪曲師朝日丸の話」「ミミのこと」には、作者の一兵卒としての従軍経験が語られるのだが、その語り口はまるで、吉村昭大岡昇平の小説に村上春樹の主人公が迷い込んだかのようだ。ハードボイルド・ミステリの翻訳家でもある作者の文体と村上のそれが似ているせいもあるが、それよりもどの作品においても、主人公の「ぼく」が置かれた状況に対して徹底的に無力であることが、村上春樹の小説の傍観者性に通じるように思う。
東大生の肩書きを見込まれ分隊長にされるもその無能を嘲られ(「浪曲師〜」)、戦後の米軍施設での労働をへらへらとこなす態度に「ハッピィさん」という皮肉な渾名を授けられる(「ミミのこと」)。なし崩しに大学を中退しテキヤに加わって旅暮しをするが、それも主体的な選択というよりは成り行きまかせだ(「香具師の旅」「母娘流れ唄」)。
男女関係でも、憎からぬ女が目の前で仲間たちと交わるのを「かなしい気分」で「ふてくされた気持」で黙認する(「ミミのこと」)。自分に心も体も開こうとしない妻と義兄との近親愛を想像することを「なぜ、そんなことがたのしいんだろう」と思いながらも「たのしんでるようなところがある」(「鮟鱇の足」)。過去に関係した女性の娘と成り行きで寝て、翌日その娘から「これ、どういうことなの?」と呆れられる(「母娘流れ唄」)。
主人公は主体的に状況を動かすことができず、常に状況に動かされる。だが彼は、やってくる状況を決して拒まず、そんな自分を軽蔑することもない。また、最近の一部の若い作家たちのような、状況からの疎外を「聖別」と看做すような自意識とも無縁だ。
私はこのような田中小実昌の小説を「でくのぼうの小説」と名付けたい。
でくのぼうの悲しみ、でくのぼうの諦め、でくのぼうの喜び。
無用であること、局外者であることを淡々と引き受ける姿は、色川武大尾辻克彦の作品の味わいにも通じて、錆びて弛んだ駄目人間の心の琴線にざらざらと触れる。