自殺と自死

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061113
いじめと自殺をめぐるtokyocatさんの記事の中で「自殺」と「自死」という用語が混在しており、そのことについてコメント欄で応答がなされている。
むかし橋本治が、一つのエッセイの中で一人称「私」「僕」「俺」が混在しているのを校閲に指摘されて頭にきた、というようなことを書いていたけれど(ちょっといま原文が出てこない)、異なる語が用いられるということは、その語でしか表せない意味なり感情なりがあるということで、殊更に意識しなくとも自然に使い分けられるものだろう。
もっともtokyocatさんは明確に、

自殺」という言葉はあまりにネガティブに使われるので、ちょっと異論をこめて「自死」という言葉を使いたいことがあるのです。今回なんだか混在してしまいました。

という意図を持って「自死」という言葉を用いたと書かれている。
「自殺」というのは「自らを殺す」という意味で、行為の対象を持つ他動詞を含んでいる。対して「自死」は「自ら死す」というふうに、対象を持たず行為の主体に重きが置かれる自動詞系の用語だ。同じ意味を示す他動詞系の語には「自殺」のほか「自害」「自裁」があり、自動詞系には「自死」のほか「自決」がある。
他動詞系のうち「自殺」の語は「してはいけないこと=悪」という社会的な合意を背負った「殺」の字を抱え、しかも行為の主体と客体が同一であるという倒錯性も手伝って、最初からネガティヴなニュアンスが強い。これが「自害」になると、やむにやまれずという悲劇的・同情的な意味合いが大きくなる。さらに「自裁」だと、自らを裁くことの潔さへの賞賛が潜んでいる。自動詞系でも「自決」がやはり、「自裁」と同様に賞賛・肯定の要素がある。
それらの語に比べれば「自死」という言葉が、「自ら死す」という行為の内容以上の倫理的・審美的な価値判断を含まない、やや中立的な用語といえるだろう。実際、tokyocatさんも

いじめることや自死することもまた、
もしや、いくらかは肯定的で積極的な行為なのだろうか?

のように、否定的な意味合いに疑問を呈しつつも、「肯定的で積極的な行為」であると断定するには至らない、中立的な文脈でのみ「自死」を用いられ、いわゆる社会一般の通念上で使われる語としては「自殺」を用いられている。混在というよりも明確な使い分けがそこでなされている。
「自殺」=いけないこと、という俗情あるいは思考停止を退けるために「自死」という言葉が用いられたのは理解できる。とはいえ、「自ら死に赴く」ことを「社会的弱者対策の最終解決」的に容認されたり、命より大きな価値のための「潔い死」が賞賛される事態よりは、「自殺、絶対ダメ!」という俗情が社会に共有されているほうがましだとはいえるだろう。
「自殺」の文字が毎日メディア上に踊るのもやり切れないが、「自裁」「自決」が大文字で新聞紙面を飾るような時代の到来はごめんこうむりたい。


と、朝日新聞的に締めてみました。