米澤穂信『春季限定いちごタルト事件』『夏季限定トロピカルパフェ事件』(ともに創元推理文庫)

ミステリに「日常の謎」と呼ばれるカテゴリがある。日々の暮らしの中に不可解な現象を見出して、その成り立ちの謎を解き明かすという形式だ。だが、その現象を「謎」として認識する人間がいないと「日常の謎」は成立しない。その認識者=「探偵」が存在しなければ謎もまた存在しないことになる。ミステリが探偵から遡及して発生する物語ならば、探偵さえいなければ事件などはなく、死体も転がらずに済むのかもしれない。なので、近頃では誰も進んで探偵役を引き受けたがらないし、あえて「探偵」を名乗る者は探偵のパロディか、あるいは自虐的ユーモアを湛えたハードボイルドの語り手とならざるを得ない。探偵は道化か疫病神なのだ。

本シリーズの主人公である高校生の小鳩常悟朗も、そのような歴史の果てにあるミステリの現在を踏まえ、推理力を発揮しても誰にも感謝されずむしろ疎まれる、探偵の受難に嫌気がさしている。そして同じくその知性と行動力(しかもダークサイドの)によって痛い目にあった小佐内ゆきと共に「小市民」を目指すべく、恋愛関係ならぬ互恵関係を結んでいる。そんな小鳩くんだが、やむを得ぬ事情に巻き込まれ、あるいは根っからの推理好きの業に突き動かされ、しばしば探偵の役を演じることになるのだった。

いい齡のおっさんにしてみると、この「小市民」を目指す少年の自意識は底が浅いというかやや嫌みに映る。とはいえ、ある集団のなかでは抜きんでた感覚を誇示しようとする「中二病」から、あえてその感覚を隠すことで裏返しの優越感に浸る「高二病」へと主人公が段階を踏んで推移しているあたり、これはある種の人にとってリアルな青春小説であるといえる。その嫌らしさは小鳩くんの友人の健吾くんも指摘し、本人も薄々自覚してはいる。しかしその自覚も充分ではないとばかりに、作者は第2作『夏季限定トロピカルパフェ事件』において、小鳩くんの傲慢さに痛烈なしっぺがえしを食らわせるのだ。これは「個人の才能と公共性」という問題にも繋がるのだろうが(本シリーズは「名探偵の修行時代」かもしれない)、個人的には「公への使命感」に目覚めるのではなく「好きなものは仕方ない、節度を弁えつつ周りに示していこう」くらいの素朴な自己肯定に収まってほしいと思う。それにしても「スィーツには旬というものがあり、中でも最上のものは急いで食べなければ、風味が落ちるどころか醜悪な味に変わり果ててしまう」ということを知っている小佐内さんは、どれだけ大人びた女の子なんだろう。これでは高二病の少年が太刀打ちできるはずもない。同じ道を辿ってきたおっさんには小鳩くんの痛さが身に染みる。だからこそ彼は小佐内さんを追いかけずにはいられないだろう。

ところでミステリとしての本シリーズは、「日常の謎」に関わる複数の短編が縒り合わさって、日常を超えた大きな謎(犯罪)の解明へと収束していく形式を採っている。それは第2作に至り、各編に章立てが振られてより明確に長編として構築される。主人公たちのスィーツ巡りが小さな謎を招きながら各章を結び合わせ、それらが一つの大きな仕掛けへと繋がっていく構成は、先に述べた小鳩くんへの手痛いしっぺがえしと相俟って強いインパクトを持つ。のだが、この大仕掛けはかなり人工的でもある。その作者の作為を物語の中に収めるために、それを可能にするような(そういう行動をせずにはいられないような)キャラクター造形がなされているのだが、これを「ミステリの形式が要請した、ジャンル小説ならではの創造性」と評価するのか、あるいは「登場人物が物語の歯車にされている」と難色を示すか。これはジャンルへの愛着度にもよるのだろうが、私のような薄いミステリ読者には、登場人物たちがちょっと不憫に思えてしまう。なので、ここはやはり次作に期待するよりないのだろう。頑張れ小鳩くん、きっと秋には限定の丹波モンブランとかが君を待っているぞ。