『かしまし〜ガール・ミーツ・ガール〜』第1話「少年はその日変わった」

ある日墜落してきた宇宙船と衝突した少年が、女の子に生まれ変わって2人の女の子を相手にパヤパヤするという、書いてるだけで頭悪くなりそうな話だが、意外にもちょっと好感を持った。
そもそも昨今のおたく事情なら普通に百合ものでいいものを、なぜこんな超展開を導入しなければならないかと言えば、「あかほりさとる作品だから」としか言いようがない。
雑駁な言い方をすれば「萌え」というのは単にキャラクターの属性に基づくのではなく、異なる属性を持つキャラクターたちの作り上げる関係性に由来するものだろう。それも、受け手が物語のなかで関係性の担い手に同一化するのではなく、むしろその外側からキャラクター同士の絡みを眺めて楽しむという態度が多いように思う。そこが、感情移入の対象である「主人公を中心とした」人間関係の行方に一喜一憂する、かつての少年漫画のラブコメやハーレムものとは大きく異なる。その意味で、男性が同一化する対象を最初から持ち得ない(少なくとも持ちにくい)百合ものは、「萌え」の現在における先鋭的な側面を持っているといえるだろう。
あかほりも流行りものとしての百合に目を付けたのだろうが、自分の好きなタイプの女の子を出して物語の中でモテよう、あるいはアレしようという古典的な欲望を動機に物語を作る「ラブコメ」「ハーレムもの」の正統的な作者としては、百合というのは取りつく島のないジャンルだ。そこで、百合ものでもあかほりが欲望を発揮できる状況を作るために、「本当は男子である女子」を中心にした三角関係という無理矢理な状況を用意する必要があったのではないか。
「穏やかな日常のなかで穏やかな人間関係を愛でる」という最近ありがちな静的な世界観を「女の皮をかぶったあかほり」がいかに撹乱するのか、オールドスクールなおたくのサヴァイヴとしても注目すべき点があったりなかったり。まああかほりに関心がなくとも、無駄に豪華な声優陣と美麗な作画で充分楽しめる。*1

*1:以上のような所感は、私がまったくゲームをやらない人だからだろう。自分を主体にした関係性を妄想することは「それなんてエロゲ」と即座に批評の対象になってしまう。逆に言えばそれが許されるのがエロゲであり、双方向性を持たない旧メディアでの物語表現では、他者の物語を距離を置いて眺めることが(過剰に)求められているような気がしないでもない。