わからなくても大丈夫

三省堂SFフォーラム「ラファティの魅力を語る」浅倉久志柳下毅一郎トークショー
2005年11月10日 三省堂書店神田本店
出演:浅倉久志柳下毅一郎(司会進行)大森望
ラファティの新刊『宇宙舟歌』(国書刊行会)発売記念のトークショーに出かける。浅倉さんの風貌は「マイルドな大江健三郎」という感じ。晩年の山田風太郎にも似ている。ていうかおじいさんの顔は区別がつかん(失礼な)。病み上がりで登壇した大森氏はお元気なようで何より。
新刊の翻訳者である柳下氏と、かつてラファティのファンジンでSF賞を受賞したという(笑)大森氏の若手2人が、日本におけるラファティの紹介者である浅倉氏にその本質を尋ねる、というのが今回のイベントの主旨であったかもしれないが、そのようには展開しなかった。なぜなら、はにかんだ笑みを浮かべる浅倉氏が、柳下・大森両氏の深読みを受け流してしまうからだ。
柳下「カトリック信仰はラファティにどう影響してるんでしょうか」
浅倉「……よくわかんないですねえ(笑)」
浅倉「『宇宙舟歌』はホメロスが下敷きで、しかも各章頭に詩が出てくるのを見て、もう駄目だと読んでいなかった(笑)」
また、浅倉氏が訳者の一人として参加したアヴラム・デイヴィッドスン『どんがらがん』(河出書房新社)の話題でも、氏が訳したシュールで難解な短編「ナポリ」を「訳したけど何が書いてあるのかわからない」と笑う(ちなみに私も何が書いてあるのかわからなかった)。
こうした物言いが本音なのか韜晦なのか定かでないけれど、ラファティやデイヴィッドスンやジーン・ウルフら「難しい」作家の作品を、浅倉氏以上に読者にわかりやすく訳すことのできる翻訳家は少ないだろう。柳下・大森両氏の「アメリカの読者よりも、浅倉フィルターを通して読む日本の読者のほうが(ラファティにしろデイヴィッドスンにしろ)わかりやすいし面白く読める」「他の翻訳家が敬遠する難しい作品は浅倉久志に回される」といった発言には、浅倉氏への敬慕と信頼が強く窺えた。自分なりに理解しようと独善的な解釈を加えず、あるがままに訳すという姿勢が、翻訳家としての浅倉久志の偉大さなのだろう。
後半は『どんがらがん』の話題となり、デイヴィッドスンの難解さ、その膨大な作品群を読破した編者殊能将之の偉さ、殊能編/浅倉訳による後続企画案などがその場の流れで語られた。デイヴィッドスンにしろラファティにしろ作品理解に役立つようなトーク内容ではなかったけれど、浅倉久志さんの御尊顔を拝することができただけでもそれなりに満足なのでした。


ところで『宇宙舟歌』は面白い。「オデュッセイア」を下敷きにした本歌取りスペースオペラは、翻訳家たちが「何のために宇宙を旅しているのか動機がわからない」と口々に語るように、主人公たちの場当たりで理不尽な行動や凄絶な殺戮が、何の情念も意味も関わらないがゆえに、ひたすら乾いた笑いと爽快感をもたらす。善悪も生死も虚実も因果律も適当に乗り越えたカオスな物語世界には、往年の吾妻ひでおの漫画に通じるものがある。「悪いことして何が悪い」! おまけに、すべての冒険を終えて故郷に戻った主人公が迎える結末には、あろうことか感動までさせられてしまうのだ(ラファティなのに!)。それにしても「<どーん!>ボタン」はひどすぎる(笑)。