グレッグ・イーガン『ディアスポラ』(ハヤカワ文庫)

人類の多くが肉体を捨てコンピュータ内のソフトウェアとして存在する未来、理論の予想を覆す宇宙的規模の異変が地球を襲う。人類存続のため、あるいは冒険心に動かされ、ソフトウェア化された人類は自らを無数にコピーし、他の銀河に向けて無数の船で旅立つ「ディアスポラ」を決行する。その旅が人類をさらなる高みへと導いていく様が、壮大な年代記として描かれる。
ソフトウェア知性や多次元宇宙の難解な描写を乗り越えれば(あるいは飛ばせば)、残る物語は意外にシンプルだ。そのベクトルは人類の原型からも生存する世界からも「できる限り遠くへ」向かおうとする意志に貫かれている。
例えば『ディアスポラ』では肉体を離れて知性は存在しうるか、などという問題はほとんど問われない、自明のこととして扱われる。しかも肉体を持った人間がコンピュータ内に「移入」する場合はおろか、主人公のように最初からソフトウェアとして仮想空間内に発生した存在すら、人類であることは疑問の余地がない。生身の体にこだわり続ける「肉体人」や、ロボットに宿ることで現実との関わりを保とうとする「グレイズナー」なども、人類の在り方の多様性を示すものに過ぎない。テクノロジーがもたらす小さな個人の心の危機を扱ってきた、これまでのイーガン作品よりも「遠くに来た」印象を受ける。
物理的な距離としても、超知性との出会いによって宇宙の謎の一端に触れ、無限次元の宇宙へと移動していく描写は、SFが想像の手を伸ばしうるもっとも遠くまで到達したものといえるだろう。その裏づけとなる理論は私にはほとんど理解不能だが、主人公たちの遠くへ行こうとする動機がきわめて人間的なものであることが、この気宇壮大な小説を地上と結び付けている。その人間性の不変を想像力の限界であると言いそうになるが、それこそがイーガンSFの本質であるのかもしれない。海洋惑星に生まれた巨大な藻類群生との接触を描く「ワンの絨毯」は、否応なく「ソラリスの海」を思い出させる。ただしコンタクト不能の異質な知性として描かれる後者に対し、「理解不能なものなどない」と登場人物たちが繰り返す『ディアスポラ』のスタンスはより楽天的、前向きだとも言える。本書のある種爽快な読後感は、そうした姿勢にもよるのだろう。
ただし、大森望のいう「SFだけが与えうる深い感動」にまでは、個人的には達することがなかった。イーガン作品における「大きな物語」と「小さな物語」のバランスの、後者に傾いたものを私がより好むことと、物理理論が描き出す宇宙像を今一つイメージできない理解力の不足によるものだろう。物理学者の解説に触れればまた違う感想が生まれるだろうか。