『仮面ライダー響鬼』三十五之巻 「惑わす天使」

録画を止め起きられた時だけ流し見するモードに切り替えた新響鬼だが、今日はエウレカからずっとリアルタイムで観てた。エウレカ、ずいぶん人物描写がまともになった気がするのは、ゲッコーステイト側の描写がないからだなきっと。マジレン、お兄ちゃんの応援に笑いつつ胸が熱く。で響鬼、正直最初の5分で耐えられずテレビを消し、思い直して最後の10分で復帰した。なのでザンキさんのお笑いは幸か不幸か見ていない。なので本来書けることもないのだが書く(笑)。


白倉P・井上脚本の作風を一言で表せば「ヒーローの自明性を疑う」ということになるか。これは『エヴァ』へのアンサーであった『超光戦士シャンゼリオン』から平成ライダーまで一貫している。言い換えればいまだ『エヴァ』以降のおたく表現の引力圏にある。それに対する高寺Pの仕事は「ヒーローの自明性の回復」だといえる。「なぜ戦うのか」という問いかけから出発する白倉ヒーローに対し、高寺ヒーローの答えは最初から「人助け」に決まっている。この姿勢は白倉にとっては反動的にさえ映るだろう。
これはどちらが優れているという話ではない。ポップスの歴史は舞踏音楽と鑑賞音楽の循環だと山下達郎が語るように、二つのヒーロー論が対立し交互に表れることで、ヒーローものというジャンル表現は鍛えられていく。宮崎駿富野由悠季の二人が同時代に存在したことが日本のアニメを豊かにしたように。ただ、白倉・井上が属する「90年代モード」はあまりにも長く続き過ぎた。高寺の「大人が確信をもって子供にきれいごとを言う」作風が非常に高いレベルで作品化された『響鬼』の出現は、ようやく「エヴァの90年代」を終わらせるのではないかと期待したのだが……。
このような成り行きから、白倉・井上響鬼が高寺響鬼への批判を含むことは当然であったろう。恋愛という不確定要素によって、高寺的な揺るがないヒーロー像を揺るがせてみせることも、別格扱いされるザンキというキャラクターにお笑いを演じさせることも、「ヒーローの自明性」への疑念という一貫性から導かれる展開であり演出だ。もっとも、そうしたアンチテーゼがまがりなりにも連続性のある一つの作品のなかで提示されるという事態は、やはり誰にとっても不幸であるとしかいいようがない。『仮面ライダー響鬼』が高寺作品として全うした後に、それへの批判なり回答なりとして現れる白倉・井上の新作こそが、真の傑作あるいは問題作となりうる可能性はあったはずなのだが、それを観ることなく終わりそうなのもまた不幸だ。


えーと、で今日の感想。イメージ映像としての太鼓乱れ打ちは、久々に石田監督の超演出でなかなか良かったです(笑)。次回予告で唐突に変身忍者嵐が見参してた。ザンキさんがえらいことになるようで。もう多くは望まないので生きてさえいればいいこともあるさ。ザンキさん主役でVシネ展開とか。監督は三池崇史。あーマックス見逃したー。