『メゾン・ド・ヒミコ』(犬童一心監督)

伝説のゲイバーのオーナー・ヒミコ(田中泯)が海辺のラブホテルを買取って創設した、ゲイのための老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」。塗装会社に勤める仏頂面の事務員・沙織(柴咲コウ)のもとに、若く美しい男・春彦(オダギリジョー)が訪れる。彼は沙織と母を捨てたヒミコの恋人で、死に瀕したヒミコのために娘を迎えに来たのだった。父を憎みながらも高額の借金返済のためにメゾン・ド・ヒミコで働くことにした沙織だが、女のいない楽園とその住人たちに嫌悪感を抱くばかり。ヒミコも、自分に無断で春彦が連れてきた沙織に冷たい。そんなディスコミュニケーションだらけの人々の間にも、次第にぎこちない交流が生まれつつあった。
キャスティング、ロケーション、音楽。この三つが映画『メゾン・ド・ヒミコ』の全てだ。そう乱暴に断言したくなる。
舞踏家である田中泯はもとより、テレビドラマも最近の日本映画もろくに観ないので、柴咲コウオダギリジョーがどのような役者なのかほとんど知らない。なので、最小の所作で最大の存在感を発揮する田中も、世界を拒絶するように大きな目で睨み付ける柴咲も、美しい造作に内面を隠して見せないオダギリも、この映画のために誂えたような人物に思えた。幅の狭い役者を上手く型に嵌めたなあ、というのが第一印象だが、おそらく柴咲もオダギリも若手の演技派として(本人たちの自意識としても)評価されているはずで、そうした役者の自意識を外して人物像の焦点を絞り込んでいくのが、犬童監督の演出力というものなのだろう。ゲイの老人たちを演じたそれぞれの役者も素晴らしい。
奇妙な人物たちが同居させられるメゾン・ド・ヒミコの、非日常的な佇まいが秀逸だ。ラブホテルの看板が壁に残り、裏に回れば洗濯物が物干し竿に拡げられている侘びしさが、場所の人工性を強調する。それが劇中で、沙織が家族を捨てた老人たちを糾弾する「こんなの嘘っぱちじゃん。インチキじゃん」という台詞に説得力を与えてもいる。家族を捨てると同時に社会からも捨てられたゲイの老人たちの、孤独を癒すためのファンタジーとしてこれ以上の物件はないだろう。
そのファンタジー空間の外部からやってきた沙織は、観客にとっての虚構の入り口であり、老人たちにとっては珍客であると同時に忌避すべき世間でもある。沙織、ダンスホールで絡むサラリーマン、ホームの塀に落書きする中学生たち。彼らが虚構の城の住人たちとぶつかりあい、それぞれの反応が描かれる。中学生の一人は自分の性と出会い、サラリーマンは頑に拒絶する。そして沙織は「嘘っぱち」「インチキ」を必要とする人間の孤独と、自分自身の孤独を知り、切実に他者を求めはじめる。
沙織と春彦は心を触れあわせながら、セックスで繋がることができない。一方、性欲に駆動される会社の専務(西島秀俊)とのセックスは、沙織の心の穴を広げてしまう。ヒミコの死後に沙織はメゾン・ド・ヒミコを再び訪れるが、これは彼女がホームで暮らすことを意味していないのではないか。ストレートの男を仏頂面であしらいつつ事務仕事に勤しみながら、時折ゲイたちの館を訪れては笑顔を開放させる。沙織の母が、夫ではなくなったヒミコに求めたのと同じように。セックスを排除した異性=他者との親愛。隔絶を認識したうえでのコミュニケーション。この距離感がこの映画の最大のファンタジーではないか。このファンタジーによる癒しは「薔薇」「百合」に憧れる女子や男子が求めるものに近いような気がする。そこに若干の後ろめたさを感じたりもするが、その居心地の悪さこそ『メゾン・ド・ヒミコ』が観客に与えようとしたものかもしれない。
細野晴臣による、静謐さのなかにポップな暖かさを滲ませる音楽がとても良い。人物の感情に寄り添いながら必要以上に誇張することのない作風は近年の活動に見合ってもいるが、ストイックな映画の数少ない祝祭的な要素であるダンスホールの音楽も、できれば細野に担当してほしかった。『用心棒』のお座敷の場面が好きだと語る細野だけになおさらそう思うが、今はそういうモードではないのだろう。サントラは買ってないけどやっぱり欲しいな。