北野勇作『イカ星人』(徳間デュアル文庫)『空獏』(早川書房)

前に作者の『人面町四丁目』(角川ホラー文庫)について次のように書いた。

こうして主人公は不思議な妻と、不思議な町の日々をともに生きる。
その不思議の中で、主人公が属する現実も、主人公自身も不思議なものに変えられていくのだが、それでも日々は揺るぎなく繰り返す。
状況を動かすことへの主体的な意志や、逆に世界に関わることの不可能性に対する絶望を描くのが、SFの持つ青春小説的な性質だとすれば、北野勇作SFはその正反対にある。大状況がどんなに揺るごうとも、個人の力がどんなに無力であろうとも、ささやかな場所を得てささやかな日常を生きるスタンスは揺るがない。そのような人物像を描く北野SFは、いわば「中年小説」としてのSFだ。「異形の私小説」と呼びたいその世界は、色川武大『怪しい来客簿』なども連想させる。色川の場合は現実と異界との接点に個人的な病があり、そこに「私小説」としての凄みがあるのだが、北野勇作が描く異界はどれだけ凄惨さを加えようとも、どこか情念が希薄で色が淡い。それは北野異界が、先に述べたある世代が共有する、メディア体験も含んだ架空のノスタルジーと繋がっているからだろう。その世代がまさに現在の「中年」なのである。
作者とほぼ同世代に属する私は、世界の破滅の淵で足掻く、あるいは嘆く「思春期小説」よりも、北野勇作が描く中年的世界観に共感と安らぎを覚えるのだ。
http://d.hatena.ne.jp/marron555/20040712#p1

実は北野勇作について、これ以上語るべきことはなかったりする。『イカ星人』もまさにこうした北野中年SFの一作だ。売れないSF作家のKは、専業主婦宣言した妻にせき立てられ、コンビニでアルバイトを始める。コンビニはイカ星人から地球を守る防衛隊のようでもあり、イカ製品の工場のようでもある。コンビニ店長は人間のようでもあり、イカ星人のようでもある。イカ星人は宇宙人のようでもあり、バイオテクノロジーの産物のようでもあり、シーフードのようでもある。イカ製品に侵食された主人公は、人間のようでもあり、イカ星人のようでもある。さらには世界そのものが、イカの見ている夢のようでもある。つまりは何一つはっきりしたものはないのだが、それでも主人公は仕事を終え、妻の待つささやかな住まいへと帰って行く。世界の存在やアイデンティティがいかに揺らごうが、繰り返される中年的日常は揺らがない。それにイカ星人の塩辛があれば、いくらでもご飯をおかわりできるのだ。自分がイカ星人であろうがこの世が夢だろうが、何の支障もないではないか。
ところが、最新作『空獏』ではこうした事情が変わってくる。この三題噺のお題は「獏」「戦争」「西瓜」。獏の夢見る世界を守るために、西瓜を巡る不条理な戦争を戦い続ける男の物語が、9編の短編と10編の掌編により様々なバリエーションで語られる。10編の掌編で語られる世界の成り立ちは、世界が獏によって見られている夢であることは変わらないものの、その夢がイーガン的な仮想世界だったり、兵士のための疑似記憶だったり、それぞれに異なっていて確定しない。そんな不安定な世界での戦いが9編の短編で描かれるのだが、その戦いは目的のよく判らない不条理なルーティンワークであり、その描写も戦争映画やロボットアニメやバラエティ番組の罰ゲームのような、ジャンク的なメディア体験の寄せ集めに過ぎない。兵士である主人公は、自分の生きる世界の現実感のなさを半ば自覚しつつ、既視感のある惨めな死を繰り返す。そこにはこれまでの北野ワールドのような、幻であろうがそこに生きるものを包み込む安らぎはない。その代わりに世界に対する強烈な不安、違和感がある。何よりこの世界には、北野中年SFの大黒柱ともいうべき、妻の存在が欠けているのだ。

雨と泥のなかではいつも、残してきた女のことを考える。あの女と家のこと。

路地の奥の借家だ。物干しのそばに半畳ほどの土の地面があった。そこに花を植えてみたのだが、あまり日当たりが良くないし、土も良くないのだろうか、すぐに枯れてしまう。いろいろやってみた末、日陰に生えているような雑草を近所の道端から取ってきて植えてみるとようやく根付いた。名前もわからない雑草でも、そのうち白い小さな花が咲いたりした。あのときは嬉しかったな。
バケツを送りながら考える。
そのことだけを考える。(「溝のなかでリレー」)


もうずっと前に辞めた会社独身寮の天井だ。なぜ、そんなものを今見ているのか。
夢なのだろうか。
そんな夢は何度か見たことがある。
自分が今も変わらずあの会社にいて、同じ仕事をしている夢。(略)
もしかしたら自分は、今もあいかわらず会社の寮のこの部屋で暮らしていて、会社を辞めてどこかで別の暮らしをしているという長い長い夢をついさっきまで見ていたのではないか。(「お馴染みの天井」)


夢のなかで、こんどこそ家に帰ろう。
そう決める。
箱庭のようなあの町にある私の家。
そこで今も私を待ってくれている女。
夕暮れの帰り道。
道順をきちんと思い出し、それを正確にたどりさえすれば、ちゃんと家に帰りつけるはずなのだ。(「蟻の行進」)

なぜこうなったのかよく判らないがとりあえず、愛する妻と暮らす小さな日々の繰り返し。そんな中年的な安らぎのすべてがリセットされ、明日が見えないまま意味のない仕事を繰り返すだけの青年時代に強制送還される。私もいまだに辞めた会社に勤めている夢を時折見てうなされたりするので、この恐怖感はリアルに実感できる(過去に比べてマシだと思える現状でもないが)。戦争の恐怖が日常性の破壊に根ざすものであれば、「異形ではあっても豊かな日常」を描き続けた北野SFこそが描き得た「ひたすらかっこわるくてセコくてアホらしい戦争(あとがき)」の姿が『空獏』にはある。それは反転されて、北野中年SFが実は「妻恋いSF」*1でもあったのだということを示してもいるのだ。

*1:佐藤哲也も同じジャンルに属するか。ジャンルて。