二ノ宮知子『のだめカンタービレ』第12巻(講談社KC KISS)

個々人の内部に不穏に渦巻く情動を、社会に受け入れられるよう成形する技術/知識を学ぶこと。それを成長と呼ぶのなら、『のだめカンタービレ』の二人の主人公、千秋とのだめはそれぞれに成長物語の主人公としての資格を備えていると言える。
高度に洗練された技術/知識を備えているものの、情動を上手く表現できない千秋。
情動全開だが、それを社会化する技術/知識を一切顧みないのだめ。
両者が不足を補い合い、情動と技術/知識のバランスの取れた大人へと成長すること。それが主題であることを強調するように、この巻では二人と同じアパルトマンに暮らす中年の画家が登場する。40歳を過ぎて今一つ飛躍できない彼は、のだめのピアノの未完成を愛するあまり、それを完成に導こうとする千秋の指導を余計なことだと非難する。自分の「正しさ」に一抹の引け目を感じる千秋は一瞬納得しかけるのだが、結局は画家の非難をこそ余計な口出しだと決然と退ける。完成を拒むモラトリアムよりも、情動を正しく表現できる大人への道を、千秋とのだめは選び取った。それは作者の主張でもあるのだろう。
——ということは、読めば図式的に納得されることではある。では『のだめカンタービレ』は山岸凉子アラベスク』や、くらもちふさこ『いつもポケットにショパン』のような「表現を通じたビルドゥングスロマン」の感動を与えてくれるのか。正直私は、作者のそれこそ情動を抑制したフラットな視線/描線で描かれる登場人物たちの奇行を、面白いとは思うがそれ以上の感情移入ができない。この漫画の面白さは、クラシック界という特殊な世界に取材した奇人観察ものとしてのそれであり、成長物語の枠は『のだめ』を長編漫画として成立させるために用意されたにすぎないのではないか。その意味でこの作品は、同じ作者の『平成よっぱらい研究所』の延長上に描かれたものだと思う。留学後に少々失速したように見えるのは、Sオケ編の奇人群像劇の要素が後退し、言い訳だったはずの成長劇に本腰を入れ始めたからだろう。送り手の側がもっともらしさに騙されて、面白さの要点を見失いかけている気がしないでもない。漫画喫茶で読んでる奴が余計なお世話ですか。