大滝詠一『ナイアガラ・ムーン』(75年→05年リマスター盤)

大滝詠一のセカンドアルバム『ナイアガラ・ムーン』は、一人のシンガーソングライターの作品であるよりも先に、大滝の個人レーベル「ナイアガラ」のお披露目であり*1はっぴいえんど解散後の最初の成果報告としての意味を持っていた。
その印象は、今回の発売30周年記念の大滝自身(=笛吹銅次)によるリマスター盤を聴いてより強い。これまでの盤ではややせせこましく感じられた音像がぐっと拡がり、解像度の上昇と合わせて、各楽器の演奏の細部をまるで成分分析のようにはっきりと聴き取ることができる。ライナーノーツや『レコード・コレクターズ』インタビューも加えると、あたかも香具師に扮した大滝が道に小間物を並べて口上を述べているかの趣だ。
細野晴臣林立夫の「キャラメル・ママ」リズム体を核に、鈴木茂佐藤博のハックル・バック組、上原裕と伊藤銀次のココナツ・バンク組が構築する強力な4リズムに、様々なゲストが色を加えていく有り様は、単に豪華なミュージシャン起用ということではない。細野同様に大滝がいちアーティストを超えてひとつのコミュニティ=シーンの結節点、ハブであったことを示している。限られた地域の限られた人間関係がそのまま音楽シーンを形成してしまう、黎明期ならではの熱気がこのアルバムを永遠のものにしている。
ボーナストラックには当時のセッションがヴォーカル抜きのフルサイズで収められているが、4リズム一発録りの演奏からは、幻の「ライヴバンド・ティンパンアレー」(大滝曰く「キャラメル・バック」)の姿が生々しく立ち上る。林立夫の精緻なドラミングと、上原裕のダイナミックなそれとの使い分けもそこでは確認できる。細野ベースの超絶的なノリ、鈴木茂ギターのぶっとんだフリークぶりも圧巻だが、個人的には松任谷正隆の貢献の大きさが発見だった。
それにしてもこうしてバックトラックを聴いていると、ここに歌を載せた大滝詠一の歌唱もまた大したものだと思わされる。まるでミーターズのインストナンバーに、キャッチーでポップな歌メロを被せてしまうようなものだ。そこには歌手とバックという関係以上の、対当の緊張感を伴う対峙/対話がある。そのような濃密な場を作り上げるのが、プロデューサー大瀧詠一の存在感であり、歌手大滝詠一の力量に他ならない。
ところで、最近『テレビブロス』で大滝は清水ミチコと対談しており、そこでは以下のような発言がある。

大滝 「(略)清水ミチコの芸って、みんな物マネだと思ってるでしょ? でも本当は物マネじゃなくて、〝なりすまし〟なんですよね。このアルバムも〝なりすましアルバム〟」
大滝「(清水の顔マネ写真に触れ)あれこそ、清水ミチコ。今回のアルバムなりすましですよ。本来はなりたかったのに、なれなかったから、なりすます。己の欲望を実現しようとしてるわけ。山口百恵になりたかったんだけど、なれなかったんですよね。ホリプロオーディション受けたんだけど、受からなかったから」
清水「受けてない(笑)。誤解を招くようなこと言わないでくださいよ」 (2005年第6号)

これは清水ミチコへの評言であると同時に、自己言及でもあるのではないか。エルヴィス・プレスリーバディ・ホリー、時にはドクター・ジョンサッチモに至るまで、大滝は「なれなかった」歌手たちにレコードの上で「なりすます」。はっぴいえんど時代のスティーヴン・スティルスも含め、大滝詠一はレコードやステージの上で何者かに「なりすます」ことによって、観客の前に立つことができたのではないか。それはプロデューサー大瀧詠一の判断というよりも、大滝自身の内省的な資質によるものだろう。「なりすまし」と韜晦が70年代の歌手・大滝詠一を成立させていたと言える。ファーストアルバム『大瀧詠一』のむき出しのナイーヴさは、『ナイアガラ・ムーン』にはすでにない。それを再び聴くことができるのは、80年代の『ロング・バケイション』を待たなければならないが、「なりすまし」を止めた大滝詠一は、それゆえに観客の前から去らなければならなかったのではないか。『ナイアガラ・ムーン』での強者たちを従えた堂々たる役者ぶりを堪能しつつも、そんなことをつい考えてしまった。
何はともあれ40過ぎたら三文ソング。

*1:リリース第一弾はシュガーベイブ『ソングス』。