吾妻ひでおの「現在」

吉祥寺ブックスルーエにて『comic新現実』vol.3(角川書店)購入。目当てはもちろん、「特集 吾妻ひでおの『現在』」だ。少し逡巡があったのだけれど、読んでよかった。
もちろん吾妻ひでおのインタビューも面白いのだが(前向きな創作意欲が伺えるのが嬉しい)、何よりの歓びは吾妻の「現在」の絵を見られることだ。いしかわじゅんの書評では『失踪日記』の絵についてこう指摘されている。

やや気になったのは、ペン入れの道具だ。
主に、サインペンというかミリペンというか、均一な線で多少滲みがあって抵抗の少ないペンで描いている。これは、吾妻には合わないと思う。ペン先に力が籠もらない。描線がカーブするところに力が入らず、するりと描けてしまうので、吾妻の描こうとするものよりも楽にできるものになってしまう。形まで変わってしまう。結果として、吾妻の意図するものとは違うものができてしまう。違う意味のものになってしまう。与える印象も違うものになっている。絵は、内容をも規定するのだ。
途中、思い出したように一部だけGペンペン入れしている部分があるのだが、そこだけ表現力が際立っている。ミリペンのほうが描くのは楽なのだが、魅力的な絵を持っている吾妻だけに、もったいない。

また、偽日記(05.03.08)の記事では

ただ、どうしても気になってしまうのが「絵の力」の衰えだ。ここで言う「絵」とは、コマの構成や、構図(視点)の転換なども含めたもの。単純に、過去の吾妻氏の作品にからは、もっと「動き」が感じられた。『失踪日記』は、そんなに動きのあるような題材ではないとも言える。しかし、例えば『不条理日記』も、『やけくそ天使』にあるような「動き」という意味では、ほとんど「動き」のない作品だけど、そこにはコマとコマとの関係の「連続と断絶」が生み出すような、登場人物たちがバタバタと動くのとは別種の「動き」があった。本棚のすぐに取り出せるところにあった『パラレル狂室』の任意の1ページと、『失踪日記』の1ページとを比べてみると、『失踪日記』のページの「動かなさ」と言うか、「息苦しさ」ははっきりと浮かび上がってしまう。(特に、本の後ろの方へいけばいくほど、「苦しさ」は増してくる感じがする。)

と論じられていて、実際自分で読んでいても全盛期の流暢さとはやはり差があるようで、その違和感が「衰え」なのかどうか気になっていたのだ。
で、『comic新現実』に掲載された作品を見ると、そうした懸念はかなりのところ解消される。特に冒頭4ページ分のカラーイラストは、ワンダー(SF)とリビドー(美少女)とを同時に直撃する往年の魅力が横溢する素晴らしいもので、そのうちの2作にはそれぞれ「04.5.7」「05.1.17」と日付が記されていることから、いずれも近年のものと想像される(このイラストに限らず、掲載作品に初出が付されていないのは不親切だ)。また最新作「うつうつひでお日記」は、その大部分がミリペンの軽く均質な線で描かれているが、ここぞという美少女を描く際には、線に強弱の付けられるつけペンに持ち替えているようなのだ。その絵姿と描線の美しいこと! 逆にミリペンを用いた部分は非常にフラットで画面も静的なのだが、これは変化のない日常を淡々と描くという内容に合わせて、吾妻が選んだ線であり画風なのだろう。採録された過去の作品「夜の魚」「笑わない魚」「午後の淫行」の3作にしても、絵柄や線を作者が自覚的にコントロールしていることが伺える。『失踪日記』はまだリハビリ中という部分も感じられるものの、その線や静的な画面は、「現在」の吾妻ひでおが選び取ったものなのだ。
さらに、その「現在」は、今私たちがいる「現在」でもある。「うつうつひでお日記」の内容に触れると、それはかなりそのまんまな「日記」であり、とりわけリアルタイムな読書日記でもある。

ベルナール・ウェルベル「蟻」(上)読了 蟻人間漫画を描くための資料に借りた/巻末に変なキャンペーンが……


ジュンパ・ラヒリ停電の夜に」途中で挫折、文学的すぎて私向きではない。つい落(オチ)を捜してしまうから。5本までは読んだ


帰って新潮5月号/舞城王太郎「みんな元気。」読了
舞城〜〜 やり過ぎじゃないのか〜〜
パラレルワールド混成SFになってるぞ〜〜
いや俺は ついてくけどね…… 

そして日常部分の描写

9月7日(火)6時AM起 早すぎる! 眠い クリームパン食 コーヒー


私の読んでいる本は/特に買ったと書いてないかぎり/全て図書館で借りた本です
貧乏なので本買えない


午後散策(どうせ本屋図書館だろうって? そうです)

何この俺の日記。いや身の程知らずにもそう思ってしまう。吾妻さんはネットを見ないそうだけど、この内容は私たちが読み書いているウェブログというものに極めて近い。20代の山田風太郎の日記を、今の私は友達のウェブ日記を読むように読むのだが、この「うつうつひでお日記」もまさにそのように読める。吾妻ひでおの「現在」は、私たちの「現在」と同じ場所にあるのだ。吾妻さんが落ちた地獄が、物理的にも精神的にも私たちの日常のすぐ隣にあったように。そしてこの、アルコールから抜け出したはずの日常にも、やはり幻覚が登場する。「夜の魚」では若き日の友人たちが怪物として描かれているが、「うつうつひでお日記」での幻覚はそうしたフィクションではなく、色川武大ナルコレプシーによる幻覚のように、現実にそう見えているのではないかと思わせる怖さがある。この「日記」は吾妻ひでおの新しいステージであり、ウェブログの時代に新たな共感を持って読まれうるのではないか。
この本、吾妻特集以外の部分はまだ読めていないのだが、大塚英志に思うことは多々あれど、吾妻といい、みなもと太郎といい、かがみあきらといい、この手厚さ義理堅さには感服する。