東村アキコ『ゑびす銀座天国』(集英社りぼんマスコットコミックスヤングユー)

ゑびす銀座商店街のドライアイス屋に勤める寡黙な男・興梠(コオロギ)の周りには、3人の女がいる。1人は、戯曲作家志望の女子大生。もう1人は、就職浪人の歪(ひずみ)。さらに、結婚式場からコオロギの焚くドライアイスに紛れ、花婿を強奪して去ったホステスのみゆき。
極端に言葉を発しないコオロギは、自己主張をする余地もなく女たちに翻弄される。作者はこの四角関係とも言い難い奇妙な絡み合いを、内面を表すナレーションはほとんど使用せず、徹底的に人物の行動描写のみで語っていく。そういう意味では非常に映像的な漫画だが、中でもコオロギの場合は描写上の制約にとどまらず、語るべき内面が空白の人物として描かれているようだ。コオロギは行動の人なのである。
一方、彼が唯一関係を持っている女子大生は言葉の人だ。彼女は戯曲作家の卵として演出家に駄目出しを食らう。演出家に対し彼女は「言葉使い」として劣位に立っているが、言葉を持たないコオロギは彼女の言葉に自在に操られる。それとは逆にひずみの場合は、就職やアルバイトで行き詰まるような行動力に乏しい女として描かれていて、そんな彼女は(彼女から見れば)圧倒的な行動力で事態を打開する(なしくずしにする)コオロギに強く惹かれるのだ。コオロギは言葉によって女子大生に従い、行動によってひずみを引き寄せる。この関係性が面白い。だが終幕に至り、女子大生は自分が言葉で支配しているつもりだったコオロギの予想外な運動性を知って、逆に彼を追う立場となる。長野のみゆきの家に集まったコオロギと3人の女。高原の霧の中で、ようやくコオロギの冒頭1ページ目以来の内心の声が登場する。

たのしい/くるしい/わからないこと 見えないこと/いろいろ混ざって いつも/真っ白/それはまるで こんなふうに
いつか/この霧が晴れる日が 来るといい/そしたら/きっとそこが 天国

こうして行動の果てに言葉/内面を獲得しようとしているコオロギが、自分の内心に従って1人の女を選ぶだろうことを暗示して『ゑびす銀座天国』は終わる。それぞれに思惑ある人物の関係を、禁欲的に視点の移動のみで描き出す東村アキコの漫画力は、この1冊のみで充分に伝わる。しかしこれだけでは本作を理解したとは言えない。なぜなら本作の事実上の第1話〜第3話にあたる連作「ドライアイス」が、単行本に収録されていないからだ。おそらくそこではコオロギと女子大生との出会いが描かれていて、女子大生がコオロギに惹かれた理由は、言葉で操れる与し易い男だからか、それとも彼の「行動力」によるのか、それとも彼が発したなけなしの「言葉」だったのかが、読むことで明らかになるのだろう。彼女の顎の傷の由来も。『ゑびす銀座天国』ではとうとう判明しなかった「女子大生」の名前も、そこには示されているのかもしれないのだ。編集は何を考えているのか。「ドライアイス」が刊行されたら改めて『ゑびす銀座天国』を再読してみたい。
(ところでレーベル名の長さは何とかならんのか。無理して『きせかえユカちゃん』と揃えなくても、クイーンズコミックスでいいじゃん)