判で押したようにいつでも決まってびんぼう

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横並びにビンボが共通ブンボとしてあった時代には、別に貧乏が恥という意識もなく、長屋的共同性のもとに笑い話になり得たのだと思うし、古典落語の時代には階級闘争という概念がまずないですよね。だからその現状を諦めた上での幸福もある。現代人は一度平等主義の洗礼を受けいれつつ、同時に「努力は報われる=競争に勝利する」という矛盾する人生モデルも与えられているから、貧乏のまま固定されるという事態はやっぱりしんどいんじゃないかしら。黒人が成功するにはスポーツか芸能しかないアメリカみたいなもので、中居くんみたいに芸能で成功した人が嬉々として貧乏を語るのは「俺だって」という奮起より「絶対無理」という失望をもたらすのが今の日本。のような気がする。
あと、これは話がずれるけど「だめ連」からの連想で。旧テキストサイト的感性のもとでは、つーか私なんかは「愛すべき駄目人間」というネットキャラを設定したくなるし、それが主流でさえあった。ところがブログの時代になってそれが受け入れられなくなりつつあるんじゃないか。もはやネットでさえ競争社会のオルタナティヴというかアジール(笑)ではありえないのかと。代って浮上するのが一種の経世論で(山形さんとか山本一郎氏とか)、みんなが天下国家を論じている。こういうのも私は世知辛いなあと思う。私はやっぱりブ日記にシンパシーを感じるんですわ(笑)。あるいは新田五郎さんの文章とか。
id:nittagoro:20040815
id:nittagoro:20040928
ていうか「駄目人間」を愛すべきキャラクターとして認識する感性自体、実はホモソーシャルな共同性の内部でしか成立してなかったんじゃないかと。もういかんともしがたい。
不労所得を適当にくすねる手法については私も大いに興味のあるところですのでヨロシコ。