チューリップのアップリケ〜♪

かたるさんのエントリー「働いたら負けかなと思ってるヒトのためのブックガイド」にコメントするつもりが長くなったのでここに書く。id:kataru2000:20041226#p2
折しも「日記ちょう」のコメント欄が中居くんの貧乏自虐ネタの是非で盛り上がっていて。
http://strange.toheart.to/diary/diary.cgi?Date=2004-12-27#20041227a
シャボン玉ホリデー』の「お父さん、お粥ができたわよ」「いつもすまないねえ」の時代、貧乏は誰もが通過した体験として共感の対象で、現在自分が貧乏だとしても高度成長下でそれが「克服できる」「すべき」ものとして認識しえた。なので貧乏がネタとして成立した。ところが現在の「希望格差社会」(笑)では、現在貧乏であるという状態はもはや階級的に固定されていて(そう思われていて)、ネタにすること自体がもう洒落にならない。中居空気嫁、という話なのかと。そういや『ハロモニ』で辻加護演じる「ひとすじふたすじ兄弟」もあんまり笑えないんだよなあ。
昔の「社会主義リアリズム」が貧乏を描く時には「貧乏は構造的な問題だから社会の変革が必要だ」という革命論に話が向かったと思うんだけど、現在は「貧乏であるのは自己責任」でしかなくて、だから「貧しいながらも身を寄せあって健気に生きる家族の物語」は今じゃ「DQNの甲斐性無し」にしかならないわけですよ。かたるさん言うところの「ニュータイプ・マッチョ(仮)」的に言うならば。わあ世知辛い。
ただ「お金なんかはちょっとでいいのね〜」という価値観は、ともすれば低賃金低保証で搾取しようとしてる側を利することになりはしないか、という懸念もあったり。「身の丈にあった暮らし」という価値観もまた「貧乏は恥じるべき」というのと同様、体制が永遠に変わらないという諦念を前提にしてるんじゃないかという気はする。
もっとも「お金なんかはちょっとでいいのね〜」とみんなが言い出すと、社会全体が「低生産低消費まったり社会」モードにシフトして、我々みたいなのは生きやすくなる、という話なのかな。ただしその社会の社会福祉リソースがどこから来るかは謎、というところで弱い。バリバリ働くのが好きな人がそうでない人をカバーするというコミューン的な共同性は成立しなさそう。わあ世知辛い。
……まあネット星菫派にはこのくらいが限界です。