思想のない旅

先日古書店で購入した(900円)清水正二郎『新精力絶倫物語』(光書房 昭和34年)を読了。どこかで聞いた名前だと思ったら、胡桃沢耕史の本名だった。この筆名で性豪小説を量産していたらしい(「性豪」という言葉も昨今廃れたが)。
本書は若き日の作者の実体験をもとに書かれた、中央アジア〜南米〜ヨーロッパを巡る放浪小説である。主人公(清水)が旅に出た理由が振っていて、昭和17年という戦時下の食料不足で、野菜果物を一切受け付けず肉しか食べられない主人公は日本では生きられず、肉しか食べない蒙古への潜入を決意したというから恐れ入る。加えて、1日3度は事を致さぬと済まない絶倫ゆえ、トルキスタンキルギス外蒙古、メキシコ、ガテマラ、スペイン、フランス、等々行く先々の女たちと性遍歴を重ねていくのだから、男のロマンというのか御都合主義なファンタジーの極み。第一、カシュガルでは「この砂漠の町の男女の間では、誰とであれ抱擁は挨拶位手軽に行われていた」だの、キルギスの「チムール汗踊り」では男女が全裸で乱交を繰り広げるだの、ガテマラでは「太平洋戦争に最後まで戦った、つよい日本人の子供をほしい」だの、読者は知らないと思ってやりたい放題。昭和30年代ではまだ、荒唐無稽が通用するほど世界が広かったのだろうか。
もっとも、清水は過酷な世界史の舞台としての中央アジアも身をもって知っている。在学中に召集を受けて大陸で捕虜となり、2年間のシベリア抑留を体験したのだから。

「僕は、政治や、国際関係なんぞに何も関係のない、一介の旅人ですよ。ただ、金髪娘が抱きたくて、なけなしの金を集めて日本からやってきたもので、女色以外には何の望みもないんですがねー」

という本作の無思想な軽さは、作者自身がありたかった姿を反映しているのだろう。また、主人公はその軽薄さによって何度も死地に巡り会うのだが、それを怨むでもなく恬淡と「肉と肉を求めての、長い放浪の生活」を語ってみせる。作者が味わった苦境によっても彼の地への憧れや人々への親愛を失うことなく(ロシア人に対してさえ!)、愉快なホラ話に仕立て上げるこの態度は、重要な示唆を含んでいる、かもしれない。
ところで中央アジアでの主人公は(潜入中の身の上もあるが)日本人としての出自を隠し現地名を名乗る徹底したデラシネなのに対して、戦後に旅した南米では「ここで頑張って、日本人の汚名をそそいでおかなければ」「神は日本人に大和魂という特別な精神をあたえてくれた。それは鉄のごとき強き力にする能力である」などと、大和魂を性交時の精力の強さに置き換えて偽悪的に「日本人」を強調する(メキシコではいわゆる「勝ち組」の日系老人が登場したりもする)。こうしたメンタリティの形成には、やはりシベリアでの収容所生活が関わっているのだろう。と思って胡桃沢耕史名義の直木賞受賞作『黒パン俘虜記』(文春文庫)も購入。やはり古書店にて180円。そのうち読もう。
最後に、気になった箇所の引用。(以下表記ママ)

「オロスケ(ロシア人)は素晴らしいわ。あの時、皮が塊って動くのよ」
始めは、男達も何だか意味が解らなかったが、良く聞いてみると、それはどうも、仮性包茎の事らしかった。大体、ロシア人は、どうゆうわけか、実際の場合には皮が翻転するが、ふだんは冠ったままの仮性包茎がやたらに多い。これが今まで割礼終えて皮のまるっきり無い男達とばかり交っていた彼女にとっては、偉大な忘れ難い衝撃であったらしいのである。

タタール人は割礼をするから物足りない。やはりお前(清水)のほうが刺激が強くて私は好きだ。お前はなかなかよい青年だ」
タタール人は、幼少の時に、宗教上の戒律で包皮を切り取ってしまうので、刺激が単純で物足りないらしいのである。

こう強調されているということは、中央アジアのトルコ系民族から作者が見聞きした事実なのか。あるいは、作者が包茎であるかのいずれかであろう。本書には包茎賛美のメッセージが隠されていたのだ。良かったですね(誰に?)。