『華氏911』

近場のバウスシアターで上映中と知り、映画の日でもあり行ってみた。この日の最終だったせいか満席。話題の映画ということで若い男女の客が多い。デートムービーだ。
大統領選挙での不正に始まり、テロに際しての無策、ビンラディン一族との癒着、アフガニスタンへの無関心とイラクへの執着、自らを支える上流階級とのパーティ、犠牲になるイラクの民衆、戦場に送られる貧しい若者、息子を失った母親の慟哭……そして全編を貫く「戦時大統領」の間抜け面。
徹頭徹尾「反ブッシュ」の意志に満ちた映画で、監督マイケル・ムーア自身による饒舌な糾弾ナレーションや、あからさまな悪意に満ちた編集や音楽の挿入の仕方に、ひょっとしたらブッシュにも幾分の理があるんじゃないかと——思ったりはさすがにしないけど。ただ、アメリカの選挙権を持たない人間にとってこの映画の意味は何か、とは考える。
戦場の悲惨や為政者の欺瞞にはもはや驚きはしないが、観ていてやりきれないのは貧困者の血が富裕者の安寧を支え続ける、アメリカに限らない社会のどうしようもない不均衡だ。戦争によって貧乏人は軍役と引き換えに就職や教育の唯一の機会を得、同じ戦争によって金持ちは巨大な投機の機会を得る。これは頭をすげ替えればどうにかなるという話ではなく、構造そのものの変革、つまりは革命が必要な問題だ。『華氏911』は「ブッシュのアメリカ」ではない「もう一つのアメリカ」の存在があることを示し、マイケル・ムーアはそこに属しているのだが、事態を俯瞰して眺めることのできる彼は社会の上層に属しているのでもあり、その「知識人の善意」は根本的な変革よりも「ブッシュ以前」への回帰を求めているように見える。ブッシュを降ろすことが「もう一つのアメリカ」にとって火急の問題であることは判るが、ブッシュがいなくなってもアメリカという国の本質は変わらないのではないか、という不信感は正直拭えない。アメリカは常に戦争をしてきたし、弱者を踏み付けに繁栄を謳歌してきた、そのことはリベラルのアメリカもネオコンアメリカも変わりがない。社会の不均衡は温存されるだろう。
だが翻って我々日本人の繁栄もアメリカの繁栄に支えられてきたのであり、ブッシュを遠くから批判してみても、我々の生活そのものが弱者の犠牲の上に築かれているのだ。自分自身が弱者に他ならないにも関わらず。日本人が『華氏911』を観ることに意味があるならば(意味を求めるなら)、それはここに描かれた「構造的な悪」を自らのものとして受け止めることにしかない。ブッシュの代わりに小泉を降ろせば済む話ではないのだ。とはいうものの、主役の存在感の大きさゆえに「ブッシュってろくでもないよなあ」というその場の話題に留まってしまう可能性は高い。まあデートムービーだからなあ。