『仮面ライダー響鬼』三十七之巻「甦る雷」

もはやそれが問われる内容でもないが、展開全体にデリカシーが足りない。ザンキが車でようやく辿り着いたシュキのもとに、徒歩のあきらがほぼ同時に到着してしまうのはどうしたものか。川に落ちて行方不明になったあきらを一晩中探したものの発見できず、ザンキが師の気配を辿って行きついてみればあきらがそこにいた。それだけの修正で足りる(そういえばあきらの捜索にディスクアニマルを使っていないのも何だかなあ)。鬼を引退したザンキは音枷と音撃武器をどこから用意したのか。不吉な予感に駆られ(勢地郎の不在にもかかわらず)違反を承知で持ち出したとか、その際に武器管理者のみどりとのやりとりがあったとか、何らかの描写があれば納得とともにザンキの覚悟も強調されただろう。あるいは些末なことだが、シュキはどこから武器を取り出しているのか。これも、ベルトのバックルがハープに変化するような描写があれば充分だ。製作に余裕がないのかもしれないが、明らかに脚本上の瑕が目についてしまう。もっとも最大の問題は、ノツゴが鬼の命を犠牲にしなければ倒せないような敵には思えないことなのだが。そもそも不要な悲劇を殊更に求める作劇に無理がある。
魔化魍への憎しみに囚われたまま妄執の生を生き続けたシュキ。
シュキの憎しみに引き摺られていくあきら。
猛士宗家として逸脱者を処分する「鬼払い」の任に赴くイブキ。
あきらとシュキのどちらも救うために、病身を押して鬼に戻るザンキ
羅列するだけでもドラマチックな諸要素が向かうのは、旧『響鬼』が頑に斥けてきた「負のロマン」への傾斜だ。
歴戦の勇士であるザンキが、傷だらけになりながら巨大な魔化魍へと立ち向かっていく姿は、旧『響鬼』がもっともヒロイズムに接近した瞬間だった。にもかかわらず魔化魍退治に命を賭けるようなことをせず、「膝の故障」という非常にしょっぱい理由で引退、お調子者だが心に影のない真直ぐな青年に後を譲ってしまう。この健全さが『仮面ライダー響鬼』の志の高さだったのだが、ザンキの病は膝の故障から心臓疾患へとグレードアップされ、自らの死をも顧みず戦うヒーローとなって復活してしまった。その圧倒的なヒーロー性と引き換えに失ったものは大きい。現在の『響鬼』がトドロキの健全さを持て余し単なる道化者としか扱えないことも、彼の本質的な明るさが現スタッフの求める「負のロマン」にそぐわないからだろう。*1
明らかに人格的に問題があるシュキを鬼の教育者として擁してきた猛士とは何なのか。半ば人外の者と知りつつ、高い能力を利用してきたというのだろうか。陰陽道を源流に持つ猛士という組織に、中世的な暗さを背負わせないような配慮が旧『響鬼』にはあった。*2「鬼払い」という設定は魅力的な発想のようで、そうした旧『響鬼』の世界観を破壊してしまう。鬼払いを前に苦悩するイブキに向けてヒビキが言い放つ「鬼の仕事ってのは、綺麗なことばかりじゃないってことさ」という、いくつもの不祥事を揉み消してきた会社の先輩のような台詞を聞きながら、「鰹」にも感じなかった作品の「終わり」をはじめて感じた。

*1:「乙女のアンダーゴーゴー」JOHNさんのトドロキ漫画。このように心でフォローしつつ、視聴者は試練を耐えているのだ。http://blog.livedoor.jp/john6/archives/50149799.html

*2:参照 http://d.hatena.ne.jp/marron555/20050815#p1