『仮面ライダー響鬼』三十三之巻「装甲う刃」

久しぶりにリアルタイムで観たけど『マジレンジャー』と続けて観ても違和感のない、非常に判り易い仕上がりにびっくり。むしろマジレンのほうが主題描写に関して観念的に見える(笑)。つーか『響鬼』の根幹思想でもあった「鍛え」が、ヒーロー番組お約束の「特訓話」に化けているのがもう何だかなあ。ネットに繋ぎながら横目で見ても何ら支障なく。通常の特撮テレビ番組というのはそのようなものであったかもしれない。
アニメを観てて「製作委員会方式」のアニメファン向けの作品より、むしろ玩具を売る幼児を対象にした番組のほうが、視聴者の存在を意識して独り善がりの「作家性」の暴走を止めるバランス感覚が働くのではないか――などと思っていた時期が私にもありました。よもやそのバランス感覚が、こんな形で働くことがあろうとは思いもしなかった。ていうかすっかり忘れていた(苦笑)。おたく趣味はもともとジャンクであることを忘れてはいけない、というのがオトナの分別かもしれないが、管理する側に立って現状を肯定することを賢明さと看做す、ネット言説にありがちな態度にも反発を感じる。いち消費者として大人気なくダダをこねてみせることも必要なメッセージではあるだろう(その意味で今回の路線変更に伴う騒動も肯定する)。
まあ旧響鬼が「スーパーヒーロータイム」枠としてはあまりにも突出した作りだったことは事実だろう。前任者の高寺プロデューサーは1年分の予算を半年で使い切ったなどという噂もあるが、それが本当なら私たちは「通常の2倍の予算をかけた贅沢な特撮テレビ番組」を観せられていたことになる。言い換えればその程度のコストで、60年代〜70年代のものを除いてはアニメに比べてもB級のおたくコンテンツだった特撮テレビ番組は、「ジャパニメーション」も海外SFテレビシリーズも凌ぐA級のコンテンツになる可能性がある。それが図らずも旧『仮面ライダー響鬼』が見せてしまった大きな夢だ。その夢は、1年間で玩具を売り尽すという従来のビジネスモデルでは実現が困難であることも、旧響鬼の挫折が証明してしまったわけだが。
むしろ「製作委員会方式」は響鬼にこそ必要なものではなかったか。もはやテレビシリーズの方向性を元に戻すことを望むのは無理でも、二十九之巻までの『仮面ライダー響鬼』が見せたコンテンツとしての可能性に感応した業界関係者もいないわけではないだろう。今後、玩具メーカー主導ではない意欲的な作品が『響鬼』がきっかけに生まれることがあれば、『響鬼』の志が無駄になることはないと思いたい。ついでに妄想を言えば、メディアミックスに熱心な出版社などが一枚咬んで、高寺P/きだつよし・大石真司脚本/石田秀範・金田治監督による劇場版が作られたりしないかなあ。タイトルは『響鬼〜復活の音〜』なんちて(「仮面ライダー」は要らない)。
も一つついでに。オフィシャル二次創作としての新響鬼には「力に魅入られ暗黒面に堕ちたトドロキを救わんと、ボロボロの体を押して鬼に復帰したザンキ。かつての師弟同士の壮絶な戦いの果てに目が覚めたトドロキだったが、その時にはもはやザンキの命の炎は燃え尽き(ry」なんつー展開があると燃えるかも。もう何があっても驚きません。新響鬼の感想は気が向いた時に書いたり書かなかったり。ディスクアニマルが鎧になるというのはちょっと良かった。