『仮面ライダー響鬼』二十七之巻「伝える絆」

対化け猫戦の後編にして、すべての印象がザンキさんの生身アクションの格好良さに収束してしまいそうな一話。ザンキさんと姫・童子双方の精悍さが、戦いを緊張感溢れるものにする。一方で化け猫の造型はあまりに可愛すぎて、笑いが先に立ってしまうのだがそれもまた楽しい。
ザンキさんとヒビキさんの間で交わされる「後進に伝えるべきこと」についての会話、さらに鬼を諦めざるを得なかった努と、鬼にはならないという明日夢の間の進路をめぐるやりとりで、「社会のなかでの人の成長」という主題が改めて強調される。ここで努が示す「鬼を諦めても別の進路がある」という可能性は、作品にとって重要なものだ。
まだシリーズの半ばで総論めくが、『響鬼』の画期的な展開はヒーローの行動原理を「反社会的な正義」から「社会貢献」へとシフトさせたことにあると思う(「体制側の正義」と一線を画すうえでは、猛士がNPOであるという設定が生きている)。それを可能にしたのが「師弟関係」「修行」という発想だ。旧『仮面ライダー』には「身体改造」という社会との決定的な断絶があるが、「修行」によって鬼となる『響鬼』の場合は、一般人と特殊能力者との間に本質的な違いはない。若者は先輩による職業訓練によって「社会貢献」のための技能を身に付ける。
しかし一方で「修行」が「社会貢献」ではなく「反社会的な正義」と結びついた最悪の例を、私たちはすでに知ってもいる。あの組織の場合、修行によって目覚めた者が俗世間に戻ることは難しかった。一度脱退してもその後は監視され自由を奪われ差別され、結局は組織に戻らざるを得なくなる。またフィクションにしろ、組織の秘密を守るためには脱退者の死も辞さない、という類の「リアリズム」もあるだろう。
ところが『響鬼』では、鬼になることを「親に反対されて(!)」諦めざるを得なかった努が、猛士を離れライフセーバーを目指すという「その後」が示される。そのことにより猛士という組織の「世間」との繋がりが保証され、作品世界をカルト的な暗い想像力から斥けているのだ。努は明日夢に進路を示唆するために用意されたキャラクターであるにしても、彼の存在そのものが『響鬼』世界の健全性を担保しているのではないだろうか(その点では反「仮面ライダー」的、すなわち反石ノ森的な要素を孕んでいるともいえる)。
……えー、各話感想からえらく離れてしまったが、上記の主題もしっかり描きつつ、研究室でお菓子を貪り食うみどりさん、もっちーの「たちばな」バイト姿、笑顔で明日夢の首根っこを捕まえるあきらたん、ザンキさんのものまねをするヒビキさん、可愛いトドロキに苦笑するザンキさん、レギュラーメンバーの浴衣姿など、視聴者へのサービスも欠かさないのであった。とどめは劇場版特報で凍鬼さんことザンキさんのノリツッコミまで、何という密度の30分!